【2010年11月11日】
「私を葬るときは出雲ではなくて、若狭に葬って欲しい」
出雲松江藩主・京極忠高の母・常高院はこう言い残してこの世を去った。
常高院は、もとの名を初という。浅井長政と市の間に生まれた。市は織田信長の妹である。初の姉には茶々(のちの淀殿)がいて、妹に江がいた。
初は豊臣秀吉によって京極高次と結婚させられた。初は立場上選択の余地なんて無いから、黙って京極家へ嫁いだ。
初と高次の間に子供は生まれなかった。
種が悪いのか畑が悪いのか、はたまた秀吉が無理やり夫婦にしたものだからお互いが夜に顔を会わせるのがイヤだったのか。二人の間には子供がいない。
しかし、高次と側室の間には子供がいた。
忠高と高政である。
それぞれ違う側室から生まれたが、どういう訳か初はこの二人の男の子を熱心に育てた。また、古奈という養女や出自不明の養子についても熱心に育てた。今でいう「教育ママ」である。
のちに忠高の正室となる初姫も、初が一旦自分の養女にして手元で育てたあとに忠高と結婚させた。
初が一番「教育ママ」ぶりを発揮したのが若狭時代であった。
京極高次は関ヶ原の際、近江大津城に西軍の部隊を釘付けにした功績により近江大津6万石から若狭一国・小浜9万2千石に加増された。
9万石でも国持大名に変わりは無い。
「国持大名の子供として、恥ずかしくない教育を」
そんな思いで初は血のつながらない子供たちの面倒を見続けた。そしてそれは初の人生の中で最も充実した、楽しい時間であった。
大坂の陣で豊臣家が消滅し、出雲松江藩堀尾家が無嗣収公となると、出雲・隠岐24万石は京極忠高に与えられた。
初は
「私は若狭にいたい」
と松江行きを拒否した。
初は
「私は織田信長という人の都合で父を失い、豊臣秀吉という人の都合で母を失った。このうえ、幕府の都合で子供たちとの思い出まで失うのは耐えられない」
と思った。
初は若狭に常高寺を建立させ、そこに自分の墓を作らせた。初が常高院と呼ばれるのはそのためだ。
京極忠高と初姫の関係は上手くいかなかった。
忠高と初姫が同じく初の手元で育ったせいもあるかも知れない。関係が近過ぎて男女の仲にはなれなかったのだろう。
結局、忠高と初姫との間も高次と初の間と同様に子供が生まれなかった。
忠高の死後、京極家は無嗣収公となった。
初はどんな思いであの世から眺めていたのだろう。