もずの独り言・はてな版ごった煮

半蔵&もず、ごった煮の独り言です。

唐津城

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【2010年6月23日】

寺沢志摩守広高。

父・寺沢広政の代から豊臣秀吉に仕えた。

秀吉から信用されていて、文禄の役では肥前名護屋城代として兵士や物資の輸送・補給等を担当した。

その功績で、肥前唐津8万石を与えられた。

もともと唐津は波多 親という者の領地だった。

波多 親は秀吉に対して反抗的で、秀吉の九州征伐の際は秀吉に投降せずに唐津に立てこもった。

このときは、不問にされた。

不問にされて領地は安堵されたが、波多は心服しなかった。そしてそれを露骨に出したのが文禄の役だった。

文禄の役の際、波多は鍋島直茂軍に配属された。が、波多は

「サルめ、気でも触れたか。オレは朝鮮の人たちにこれっぽっちの恨みも無いわ」

と仮病を使って戦わなかった。

鍋島直茂からの通報を受けた石田三成は早速秀吉に報告した。

秀吉は

「あの野郎はもとからオレに反抗的だったんだ。取り潰せ」

と三成に命じた。

波多の身柄は朝鮮で黒田長政に預けられ、帰国後、常陸佐竹義宣に預けられて自害させられた。

唐津8万石は波多 親の死後寺沢広高に与えられた。さらに関ヶ原では大谷吉継軍と戦った戦功により天草4万石を加増されて12万石の大大名になった。

寺沢広高が死ぬと、息子の堅高が唐津12万石を相続した。

この堅高のときに島原の乱が発生した。

島原の乱平定後、島原藩主・松倉勝家は乱の責任を問われて首を刎ねられた。

幕府内には天草領主でもある堅高の責任を問う声があったが、大老職・酒井忠勝

唐津から天草は遠かったために監督が行き届かなかった。よって、寺沢堅高は天草領4万石のみ収公」

という処分に決めた。

それから、堅高は江戸で精神を害した。

うなされて眠れないのだ。

少し小柄な中年男が、腹と喉から血を流しながら「寺沢志摩、覚えたか!」と堅高の枕元に立つのだ。

波多 親である。

波多は唐津領を取り上げられたうえ常陸に護送され、そこで無理やり自害させられた。その恨みで息子の堅高を祟っているのだ。

「オレはおまえなど知らん!消え失せろ!!」

堅高は真夜中に大声を出して刀を振り回した。

不眠から精神を害した堅高は眼をカッと見開き、喉を突いて自害した。

堅高に嗣子無く寺沢家は断絶、唐津8万石は収公された。

のち、唐津は代官支配を経て大久保忠職に与えられた。