【2011年10月26日】
天明4年11月28日。
これは、老中職・田沼意次の発案した人事だ。
この年3月、田沼は嫡男・意知を暗殺により失った。ここから意次の下り坂が始まるのだが、それでもまだこの時点で田沼は安泰であった。
当時、オランダ商館長・チヂングは田沼意知の死について
「幕府の守旧派(松平定信一派)が田沼を憎むあまり、その息子を害したのだろう。しかし、その息子だけが日本の将来を真剣に考えていて、これで日本の開国は遠のいてしまった」
と書き残している。
田沼の敵は松平定信以下譜代門閥層だけでは無かった。大奥もまた、田沼の敵であった。
幕府の予算の記録は家重将軍の寛延3年(1750年)から残っている。この寛延3年と比較したとき、田沼の組んだ予算には明確な特徴がある。
それは、民政関連の予算は削らずに大奥の予算を削っているのだ。
田沼はこのことで大奥を敵に回した。大奥は時の権力者が誰であれ、自分たちの予算に手を突っ込む人間を決して認めない。
大奥は老女・大崎を窓口にして松平定信一派と連絡を取り合い、田沼派の家治将軍の側近である横田準松を失脚させた。
このような動きに対抗するため、田沼は井伊直幸を大老職に就けて抱き込み、定信一派を牽制した。
直幸は人一倍名誉欲の強い男だった。大老職就任前に正四位上に昇進していることがそれを物語っている。
正四位上は従三位のすぐ下。従三位となれば徳川一門の官位とほぼ変わらない。これだけの高い官位、もちろん譜代筆頭という家柄だけでは得られない。
官位昇進は家治将軍の意思。それは田沼の意思とイコールだ。田沼は直幸の名誉欲を満たしてやることで譜代筆頭の井伊家を味方に引き込んだ。
田沼VS定信一派&大奥の戦いは家治将軍の死をもって終わった。
田沼は老中職罷免のうえ4万石減知。直幸も大老職としての影響力を失った。そして直幸は大老職を辞職した。
では、彦根藩主としての直幸はどうだったか?
大老職を務めた約3年の間に彦根藩は天明の飢饉に見舞われたが、直幸は国許に命じて藩庫から備蓄米を全て放出し領民に分け与えた。このため、彦根藩では天明の飢饉による餓死者は出ていない。
直幸は田沼ともども「敗者」のため大老職としては「田沼の傀儡」として見られることが多いが、彦根藩主としての直幸は名君だったと言える。