【2010年4月23日】
彼は19歳で家を継いだときから
「早く老中職(国務大臣)に就きたい」
と、そればっかし考えていた。
が、忠邦は唐津藩主だ。
老中職には就けない。
唐津藩主は福岡藩や佐賀藩同様、「海防警備」という任務があった。
これは博多や長崎を警備する任務で、参勤交代の江戸詰めを半年にしてもらえる代わりに幕府の役職に就くことは出来なかった。
忠邦は困った。
このままでは老中職になれない。
そこで、同族の老中職・水野忠成に「袖の下」をたんまり渡して
「私を老中職にして下さい」
と頼んだ。それは唐津からの国替えを希望したことを意味する。
ちょうどこの頃、不祥事大名が1人現れた。
井上正甫は江戸・内藤新宿(現・新宿御苑)で狩りをしていたときに不祥事を起こした。
広い敷地の中で獲物を追っていて道に迷った。
出口を探すうちに疲れて喉が乾いた。そんなとき、正甫は一件の農家を見つける。
事件はここで起きた。
農家の主人は畑に出ていて不在で、留守番の妻が正甫から事情を聴いて「どうぞここでひと休みしていって下さい」と親切に白湯まで出した。
正甫は何を血迷ったのか、この農婦に欲情した。農婦を押し倒し乱暴している最中に夫が畑から帰って来た。
「オレのカカアに何しやがる!」
夫は正甫に棒で殴りかかった。正甫はそれを刀で防戦した。が、過剰防衛になった。
正甫は夫の腕を斬り落としてしまったのだ。
大声で騒ぐ夫婦。
正甫は最悪の選択をした。まず、騒ぐ妻を殺害し、腕を斬り落とされた夫を浜松藩邸に連れ去った。
夫は身柄を浜松に移され、口封じの意味合いを込めて多額の金銭と身の回りの世話をする女性2人を付けた。
これが、露顕した。
内藤新宿は高遠藩内藤家の敷地だ。
内藤家は騒動を知り、口の軽い藩士が江戸の町中で言い触らした。
江戸では正甫の駕籠が道を通るたびに
「よっ!スケベ大名!!」
と冷やかしの声が飛んだ。
水野忠成はこの事態に
「権現様以来の御譜代のツラ汚しじゃ。灸を据えねばなるまい」
と正甫を浜松から陸奥棚倉へ飛ばした。棚倉・山形は不祥事大名の左遷地だ。
後任の浜松藩主は忠成の一言で決まった。
「水野忠邦がよかろう」
こうして忠邦は浜松藩主となり、希望通り老中職に就いた。