【2011年3月8日】
文化4年、ロシアの外交官・レザノフが通商を拒まれたことの報復として部下のフヴォストフに命じて樺太と択捉島を攻撃させた。
通商を拒んだ老中職・土井利厚は当時、
「ロシアが蝦夷地を攻撃して来れば、これを返り討ちにして日本武士の強さを見せてやるわ」
と豪語していたが、結果は散々なものだった。これはロシア人による日本に対する最初の直接攻撃だった。
散々やられた箱館奉行所は幕府に事の次第を通報し、蝦夷地駐留軍の増派を要請した。
もともと、弘前藩は盛岡藩とともに蝦夷地駐留軍を常駐させていた。そこに幕府から増派命令が下った。
新たに増派されたのは100人。しかし、この100人には苛酷な試練が待ち受けていた。
初め、弘前軍は宗谷に駐留するよう命じられた。が、1週間後、今度は宗谷より遥かに奥地である知床の斜里へ向かうよう命じられた。
斜里に着いた頃、蝦夷地はすでに秋の気配が漂っていた。朝晩の冷え込みは弘前の比で無く、そのうえ樹木が生い茂り日光を遮った。
「こんなところ、来たくなかった」
増派された100人はみんな故郷・弘前を思って暗い気持ちになった。さらに暗い気持ちに追い打ちをかけたのが冬に入ってからである。
海が凍るのだ。
弘前の冬も厳しい寒さだが、海が凍るようなことは無い。加えて、その凍った海が押し上げられるのである。
「弘前に帰りたい」
そんな後ろ向きな気持ちのところに、この光景を見せられるのである。
「勘弁してくれよ」
増派の100人は、ロシアと戦う前に戦意を喪失していた。
彼等にとどめを刺したのが浮腫病である。奥蝦夷地で発生する病気で、壊血病の一種だ。
毎日毎日、浮腫病による死者が出た。結局、100人中85人が罹病し、うち73人が死亡した。健康な状態で弘前に帰国出来たのはたったの15人しかいなかった。
駐留中、増派部隊の連中は地元民に越冬の仕方について聴いたことがある。
地元民は
「斜里の人間は、9月から翌4月までは斜里の東へ七里(およそ28km)移住して冬を越します。冬の斜里は人間の住む場所じゃありません」
と答えた。
「このことを知っていれば、仲間は死なずに済んだ!」
増派部隊のメンバーの1人・斎藤文吉は怒りに震えた。
土井利厚の対応同様、幕府は蝦夷地についてろくな知識を持っていなかった。そしてそのことが斎藤の仲間を多数死なせることになったのだ。