もずの独り言・はてな版ごった煮

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松山城

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【2011年12月5日】

天明4年1月1日。

伊予松山城天守閣に落雷があり、天守閣が焼失した。

元旦のめでたい日に起きた不運な事故。天守閣はみるみる燃え上がり、翌2日にようやく鎮火を見た。

伊予松山藩主・松平定国は避難先から燃え落ちる天守閣を眺めていた。

不運と言えばこの定国も不運だった。

もとは田安徳川家の生まれで、父親は家重将軍と九代将軍を争った徳川宗武である。つまりは、定国は吉宗将軍の実の孫なのだ。

やがて家治将軍が十代将軍に就任すると、十一代将軍の座を巡って一橋徳川家徳川治済が陰謀を巡らせて田安徳川家を弱体化させた。

まず、定国を伊予松山藩の養子に出すよう仕向け、さらには定国の弟・定信をも陸奥白河藩へ養子に出すよう仕向けた。

その結果、十一代将軍には一橋徳川家の豊千代が就任し、田安徳川家は十一代将軍の座を逃してしまった。

定国には田安徳川家出身の者としてその悔しさが拭えずに残っている。

「江戸から遠く離れた四国で、なぜオレはこんな目に遭わなければならないんだ?」

定国は理不尽に腹を立てた。避難先では「どうしてオレばかりが、どうして田安家ばかりが」と気持ちを暗くした。

気持ちを暗くしているところに、駆け寄って来る者がいた。

小姓の野沢才次郎である。

才次郎は「殿、城の中にはまだ宝物が残っておりまする。それがしこれから城に戻り、宝物を取りに行きまする」と城へ行こうとした。

定国は「馬鹿者!」と怒鳴った。

そして、こう続けた。

「よいか才次郎、城中の宝はカネさえあればまた買い戻せる。だがな才次郎、おまえのいのちはカネで買い戻すことは出来んのだ」

才次郎はその場で泣き出した。

定国は

「オレの実の祖父が吉宗公であることはおまえも知っているだろう。吉宗公は『基本は人いのち』と、いつも仰せになられていた。オレもそう思う。おまえが焼け死んで宝物を守れても、それはダメだ」

と言った。

1月2日に鎮火したあと、定国は家臣の報告で宝物は無事だと知った。

定国はそれを才次郎に伝え、

「おまえも無事、宝物も無事。城が焼けたのは不運だったが、それ以外はみな無事だった。これで良いのだ」

と笑顔を見せた。

幕府は松山藩松山城再建の許可を出した。

しかし、松山藩では財政難のためすぐに松山城再建に取りかかることが出来ず、松山城が再建されたのは定国の死後であった。