【2010年8月26日】
彦根藩は鳥羽・伏見の戦いの直前、全藩士を集めて世論調査を行なった。
彦根藩は10万石減知されたとはいえ25万石の大藩だ。藩士も1万人以上いる。
この1万人以上の人たちに、藩は
あなたは幕府軍に付くべきだと思いますか?
という世論調査をした。
結果、1万人以上の藩士の中で幕府軍に付くべきだと思うと答えたのはたったの4人だった。
新政府軍に付いた井伊家は明治に入り伯爵を与えられた。
もともと、彦根藩は井伊直弼に代表されるようにバリバリの佐幕だった。
譜代大名はだいたい5万石前後を与えられるのが普通だったが、彦根藩井伊家は35万石を与えられた。
これは、幕府が彦根藩に対して
「謀反人が挙兵したら、おまえたちが先鋒になって戦え」
という含みを持たせたものだ。「斬り込み隊長」に対するいのちの保証費込みの35万石なのだ。
その「斬り込み隊長」を期待されていた彦根藩は鳥羽・伏見の戦いではあっさりと新政府軍に付いた。しかも、幕府軍に付こうと言ったのはたった4人だった。
大老職・井伊直弼が江戸城桜田門外で水戸藩士・関 鉄之助たちによって殺害されて首をもがれたあと、幕府は初めこの不祥事を見て見ぬふりして嗣子・直憲に彦根35万石の相続を認めた。
ご丁寧に幕府は彦根藩に
「もがれた首を胴体と縫い合わせれば、病死で扱ってやる」
と知恵をつけた。
彦根藩ではその通りにし、首と胴を縫い合わせて幕府の検屍役に見せた。
幕府はさらに
「御病気御重篤と聞いたので、見舞いの品を贈る」
と、白々しくも朝鮮人参を贈った。
幕府は藩主横死→彦根藩改易という流れになることだけは防がねば、と強く思っていた。
彦根藩がお取り潰しになった場合、彦根藩が水戸藩に宣戦布告→内乱となってしまうからだ。
ただでさえ列強の植民地にされる危機を抱えているのに「彦根・水戸戦争」なんてされたら眼も当てられない。
それが当時の幕府の都合だった。
しかし、幕府の都合が変わった。
徳川慶喜や松平慶永たち「反井伊」の人物が次々と復権すると、井伊直憲は
「先代直弼、賊に討たれ首を奪われるなど大老職にあるまじき死に様。本来ならば改易とするところなれど、藩祖・直政の功績をもって10万石減知に処する」
と10万石減知の処分を受けた。
この処分が結局彦根藩を新政府軍に付かせてしまったと言える。