【2010年4月27日】
細川家にお預けになった赤穂浪人に奥田孫太夫重盛がいる。
忠勝の姉が播磨赤穂藩主・浅野長友(長矩の父)に嫁ぐ際に付け人として鳥羽から赤穂に行った。
が、赤穂にいるときに内藤忠勝が家綱将軍の法要の席上で永井尚長を殺害したために改易となり、孫太夫は浅野家に仕えることになった。
そして今度は浅野長矩が吉良義央に刃傷に及び、またしても主家を失った。
孫太夫、56歳。
安兵衛、33歳。
なかなかおもしろい組み合わせだと思う。
安兵衛の年齢なら血気にはやるのもわかるが、孫太夫は56歳だ。今の時代で言えばもうジイサンなのだ。
それでも孫太夫は仇討ち急進派の中心となって活動した。
それを横で見ていた冨森助右衛門が笑いながら
「ただ首を打たれればいいのだ」
と言った。
この頃になると切腹はかなり形式的なものになっていて、腹に刃物を当てた時点で介錯人が首を落とした。違う言い方をすれば、腹に刃物を当てるのが首を打つ合図だった。
さらに時代が過ぎると、今度は
「扇子腹」
と呼ばれる形式の切腹が主流になる。
「扇子腹」とは腹に刃物ではなくて扇子を当てるのだ。腹に扇子を当てたら首を打つ合図だった。
赤穂浪人も「扇子腹」だったのではないかという説がある。
もしかしたら、細川・水野・久松松平の三家はそうだったかも知れない。
が、毛利家では刃物を用意した。そのため、間 新六は切腹の座につくといきなり刃物を腹に突き立てて横一文字に切った。介錯人が慌てて首を刎ねたのだが、本当に腹を切ったのは間 新六ただ一人だ。
ついでに言うと新六の遺体だけは義兄の中堂又助に引き取られて築地本願寺に葬られたため、他の45人が眠る泉岳寺にはその遺体は無い。
孫太夫は新六のようにはしていない。
作法通り腹に刃物を当てた時点で首が落ちた。
時代劇なんかだと本当に腹を切っているが、実際は「扇子腹」に見られるように腹は切らずに首だけ落とした。
本当に腹を切るケースというのは、何らかの意思表示をする必要がある場合だけだった。