【2011年5月19日】
榊原式部大輔政岑。
播磨姫路15万石の藩主だった。
もとは分家の当主だったが、運良く本家・播磨姫路15万石を相続した。
「藩主だった」と書いたのは、この男は藩主の地位を剥奪されたからである。
榊原政岑には
女狂い
という「病気」があった。
享保17年。
吉宗将軍の享保の改革真っ只中のとき、何を血迷ったか江戸・吉原の遊郭である三浦屋の高尾太夫を2,500両(1億2500万円)で身請けした。
異常である。
正室がいるにも関わらず、幕府に盾突いてまで傾城を2,500両で身請けするなど、異常そのものだ。
さらに政岑の異常行為は続く。
今度は参勤交代で姫路への帰国道中、有馬温泉で湯女3人を身請けしたのだ。
こうなると、異常を通り越して「病気」だ。
この「病気」を心配した姫路藩重臣・村上主殿が「殿が傾城など身請けなさるゆえ、世間では『榊原家と尾張様(徳川宗春)は謀反を企んでいる』と噂しておりまする。どうかお慎みを…」と諫めた。
それに対し、政岑は
「オレのは病気だ。謀反などでは無い。心配するな」
とだけ言って、有馬温泉で身請けした湯女たちが待つ寝室へ行ってしまった。
傾城身請けの一件は吉宗将軍の耳に入っていた。また、吉宗将軍は政岑が傾城身請けのあとに吉原に3,000両(1億5000万円)バラ撒いたことも知っていた。
吉宗将軍は「何かあったら取り潰してやる」と思った。
その「何かあったら」を政岑はしでかした。
姫路城下に美人の人妻が住んでいたのだが、あろうことか政岑はこの人妻をさらって城に閉じ込めた。
「こんな美人、放って置くほうが病気なのじゃ」
政岑は閉じ込めた人妻の躰を狂ったように貪った。
やがて人妻の夫が姫路藩庁に妻の行方不明を訴え出た。そして、妻が姫路城内に閉じ込められていることを知った。
政岑はここで最悪の決断をする。
人妻は城から解放したが、政岑は人を使って夫を殺害した。そしてそれを吉宗将軍に知られた。
吉宗将軍は政岑を江戸に呼び出した。
改易を申し渡すためであったが、姫路藩重臣・尾崎富右衛門が秀忠将軍直筆のお墨付きを持参した。
お墨付きには
「榊原家は謀反のことがない限り改易しない」
と書かれていた。
また、側にいた首席老中・松平乗邑も取りなしたため、政岑はお取り潰しを免れて播磨姫路から越後高田への国替えで済んだ。
豊かな姫路から貧しい高田へ。
国替えから2年後、榊原政岑は高田で急死した。享年31。