【2013年1月23日】
寛永8年5月28日。
この日、信濃松本藩主・松平康長の屋敷で康長と伊達政宗が難しい顔を突き合わせていた。
この日、駿河大納言・徳川忠長が不行跡を理由に甲府で蟄居を申し付けられた。
おそらく蟄居の次は改易であろう。
松平康長と伊達政宗はすぐに想像がついた。
「藤次郎どの、オレには兄弟がいないからわからんのだが、上様はそんなに駿河様が憎いのかのう」
「孫六郎どの、オレだって好きこのんで弟を斬ったわけではない。ただ、弟を担ぐ一派がオレを害そうとした。だから止む無く斬った」
松平丹波守康長、永禄5年生まれ。
康長70歳、政宗65歳。
二人は何でも話せる親しい間柄だった。
これは康長の性格によるものだろう。
康長は人当たりの柔らかい、穏やかな人物だった。そのため、家康・秀忠・家光の三代からも信用された。
そんな康長が、何故か伊達政宗とも親しくした。譜代の連中が嫌った政宗と何故か康長は親しくした。
松平康長はもとの名を戸田孫六郎という。康長の「康」の字はいえやっサンの「康」の字だ。
戸田家は三河国渥美郡を支配していた豪族だったが、いえやっサンが三河統一するうえで戸田家の力が必要だったため、父親違いの妹・松姫と結婚させて松平姓と「康」の字を与えた。
康長は早くに父親を亡くして苦労したが、家臣団やいえやっサンの温かい心が康長を人当たりの柔らかい、誰とでも仲良く出来る性格にした。
一人っ子の康長と、たった一人の弟を斬った政宗。
二人ともこの処分に生身の人間として心を痛めたが、同時にこの処分に二つの根っこがあることを知っていた。
一つは、元からの兄弟仲の悪さ。
忠長は日頃から家光将軍に対して反抗的な言動が目立った。これが謀反を疑われる原因だった。
また、土井利勝は幕府の体制を盤石にするために忠長を始末する必要があると思っていた。
「孫六郎どの、駿河様は肥後の加藤忠広と親しい。駿河と肥後を合わせれば100万石。謀反に及べば大勢力になる。大炊頭(利勝)はそこまで読んだか」
「弟を泣く泣く斬った藤次郎どのの見立てじゃ。間違い無かろう」
事実、翌寛永9年に加藤忠広は取り潰されている。
その取り潰しの報せを、康長は松本城の病床で聴いた。
寛永9年12月12日、松平康長は家光・忠長兄弟の仲を憂いながら世を去った。
享年71。