【2011年3月1日】
「この簒奪者め!生首にして松江に連れ帰ってやるわ!」
京都に潜伏中だった堀尾掃部(18歳)は松江藩の追手に発見され、斬殺された。掃部の首は松江に送られたあと葬られた。
出雲松江藩堀尾家では藩祖・吉晴の嫡男である忠氏が蝮に噛まれて死亡するというアクシデントが発生し、忠氏の子・三之助が嫡孫承祖することとなった。
幕府は三之助が6歳だったことから嫡孫承祖を危険視する声もあったが、吉晴が「三之助が成長するまで私が監国(政治監督)を務める」と言ったため、いえやっサンも「吉晴どのが監国なら」と三之助の嫡孫承祖を認めた。
しかし、これに「異議あり」と言った者がいた。
吉晴の長女・勝山とその夫の堀尾河内守である。
勝山は「私の息子・掃部は15歳です。6歳の子供を藩主にするくらいなら、掃部を藩主にして下さい」と訴えた。
吉晴は「幕府が三之助を跡継ぎにと決めたのだ。今更変えられぬ」と突っぱねた。
事件は、この3年後に発生する。
当時、吉晴夫妻は松江城の築城現場で生活していて、三之助が住む広瀬とは別々に暮らしていた。
勝山と河内守はそこを突いた。
勝山と河内守は広瀬を急襲、9歳の三之助を座敷牢に幽閉した。そして広瀬地域一帯に「三之助様ご病気」とデマカセを言い触らした。
そして「本当に病気になってもらおう」と毒薬を用意し、あとは三之助に無理矢理飲ませて殺害するだけであった。
しかし、この企ては失敗した。
三之助の乳母が命懸けで三之助を座敷牢から救出したのだ。また、救出してから広瀬逃亡までを多くの堀尾家家臣が協力した。堀尾家の家臣たちは「毒殺はやり過ぎだ」と勝山夫妻に反抗したのだ。
乳母は三之助とともに松江に着くとありのままを吉晴に報告した。
吉晴は勝山夫妻を松江に呼びつけ、
「この簒奪者め。たとえ我が娘・我が婿といえども許さんぞ」
河内守は観念して無抵抗のまま隠岐に護送されたが、掃部は松江から京都に逃亡して潜伏した。
のちに掃部は京都で松江藩の追手に発見されて斬殺、首は松江に送られた。
父・河内守は隠岐に島流しになったあと、吉晴の命令を受けた藩の役人に殺害された。ただ、河内守父子は罪あるといえども堀尾一族のため遺体は丁重に葬られた。
成長した三之助は名を堀尾忠晴と改め、吉晴の死後出雲松江24万石の太守となった。