【2011年1月11日】
忠真入封後、小倉は維新まで小笠原家が転封無しで支配し続けた。
この小笠原秀政はいえやっサンの影武者として名前が挙がることがある。
大坂夏の陣でいえやっサンが戦死したとう説がある。また、敵の手にはかからなかったが、病気で陣没したとう説もある。
いずれにせよ、いえやっサンは大坂夏の陣以後はこの世にいなかったことになる。
しかし、誰もが知っているようにいえやっサンは夏の陣の翌年まで生きていた。影武者説は夏の陣の翌年までの「ワンポイント」のことを言っていることになる。
本当に小笠原秀政が影武者を演じたのか?
いや、していない。
いえやっサンが肥満体だったことはよく知られる。
かつて今川義元を「馬鹿な大将」と腹の中で罵ったいえやっさんが、高齢になってその義元と同じく肥満体になったことに歴史の皮肉を感じる。
さて、秀政だ。
秀政が肥満体だとする史料は無い。だから影武者は無理であろう。
声だけなら周囲をだませるだろうが、のちの幕府とは違い御簾で姿を隠してはいなかっただろうから、秀政の影武者は不可能だ。
もう一つ、奇説がある。
それは前の説とは大きく異なり、いえやっサンは若いうちに死亡したために秀政が元和2年までいえやっサンになりきっていたというものだ。
この説も無茶だなあと思うが、「何でも彼でも合議制」の徳川幕府を思ったときにちょっと面白い説だと思った。「合議制」なんだから、殿様(将軍)なんて誰でもいいんだから、と。
実際の小笠原秀政は夏の陣で重傷を負ってそのまま死んだ。
忠真の豊前小倉15万石は秀政のいのちを張った功績によるものだ。
いえやっサンの死は夏の陣の翌年、鯛の天麩羅で食中毒を起こしてそのまま死んだ。現代と違い、質の悪い油で揚げるのだ。加えて、75歳という高齢の肉体の胃袋に天麩羅は決して優しく無かった。
秀政がいのちを懸けて守ったいえやっサンは、敵の手にかからずに鯛の天麩羅に討ち取られた。
小笠原秀政影武者説。
これを言い出した人が誰なのかはわからない。
もしかしたら、鯛の天麩羅にあたって死んだマヌケないえやっサンに腹を立てた譜代大名が言い出したのかも知れない。