もずの独り言・はてな版ごった煮

半蔵&もず、ごった煮の独り言です。

彦根城

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【2012年12月27日】

井伊玄蕃頭直富。

彦根藩主・井伊直幸の嗣子で、家を継ぐ前に死んでしまった。

父・直幸は次席老中・田沼意次に請われて大老職に就任したため国許のことは直富に任されていた。

田沼は人間の「妬み、やっかみ」をよく知っていたので、首席老中には松平康福を立てて直幸を大老職に就けた。

田沼は一歩下がった立場から経済改革を実施したのだ。

田沼と直幸の組み合わせは面白さと不自然さを併せたもので、田沼が「重商主義者」だったのに対し、直幸は「重農主義者」だった。

しかし、田沼の都合と直幸の名誉欲が合致し、この人事が実現した。

直幸は大老職就任にともない江戸常駐となり、彦根藩政は嗣子・直富が執ることとなった。

父・直幸が大老職に就いたあと、彦根城下で大火が発生した。

一晩経っても鎮火しない程の大火で、直富は罹災者のために藩庫を解放してコメとカネを与えた。

が、罹災者は次々と彦根城に押しかける。

藩庫の金穀がみるみる無くなるのを見た家臣のうちの一人が、「若殿、これ以上の金穀の放出は江戸の殿のご裁可を仰がないと…」と言うと、直富は

「おまえ、父上の口癖を忘れたか?もしこの場に父上がいらっしゃれば、きっと藩庫が空っぽになるまで罹災者に金穀を分け与えるぞ」

と言い返した。

直富の言う「直幸の口癖」とは

「仁憐」

である。

「仁憐」とは「思いやる心」という意味だ。

こうして直富は藩庫の金穀を断固として放出。たくさんの人たちが救われた。

こんな心優しい直富だが、私生活は決してしあわせとは言えなかった。

まず、最初の婚約者である毛利列子に婚姻前に先立たれる。毛利列子長門萩藩主・毛利重就の娘だ。

数年のちに陸奥仙台藩主・伊達重村の娘・詮子と婚約し、こちらは婚姻が成立した。

だがしかし、結婚生活は長続きしない。

結婚して少し経った頃、直富はからだの不調を訴える。

そして、とうとう病の床に伏せることになってしまう。

彦根藩では最初、京都から名医を連れて来て診察・治療にあたらせたが、直富は

「それでは領内の医者に済まない」

と処方された薬を焼き捨てた。直富は彦根藩領内の医師に気遣ったのだ。

これを見た妻・詮子は実家に手紙を送り、仙台藩医・工藤球卿を彦根に派遣するよう依頼した。

が、工藤球卿が彦根に駆けつけたときは、もう手の施しようが無かった。

「私より先に死なないで!」

詮子の願い虚しく、井伊直富は24歳の若さで病没した。

存命ならば、きっと名君と呼ばれたであろう。