もずの独り言・はてな版ごった煮

半蔵&もず、ごった煮の独り言です。

名古屋城

f:id:Hanzoandmozu:20191130093700j:plain

【2012年12月3日】

「付家老どの、上様は次の尾張藩主には宗武様を、と」

「あいやしばらく!尾張には分家もあり、そこに男子がおりまする」

それは緊迫したやり取りだった。

幕府の方針は七代藩主・徳川宗春を隠居謹慎処分にすることで、その方針を変更することは100%無い状況だった。

首席老中・松平乗邑は尾張藩付家老・竹腰正武に対し、「八代藩主には吉宗将軍の次男・宗武様でどうだ?」と言った。

これに対し正武は「八代藩主には尾張の血筋の者を」と反対した。

吉宗将軍と徳川宗春の対立は9年間に及んだ。しかし、宗春が演出した「名古屋バブル」は程なく崩壊。幕府はその責任を追及し始める。

首席老中・松平乗邑は吉宗将軍の意を受け、元文3年から尾張藩への工作を始める。

元文3年。

この年、尾張藩付家老・竹腰正武の実弟で幕府旗本・石河政朝が江戸北町奉行に就任する。石河は「いしこ」と読む。

江戸北町奉行

ただの行政官ではない。評定(裁判)にも出席出来る権力者だ。

石河政朝は松平乗邑の意を受け、実兄・竹腰正武への工作を開始する。幕府内部の尾張藩への処分検討情報を兄・正武に流し続けた。

正武は青ざめた。「このままでは尾張藩は取り潰されてしまう」と。

石河政朝の揺さぶりは効いた。

正武は松平乗邑に「裏取引」を持ち掛ける。

正武は

「宗春処分と引き換えに、尾張藩改易は何卒…」

これを聴いた松平乗邑は新藩主に徳川宗武を推した。

正武は

「分家・美濃高須藩主、松平義淳をもって八代藩主とすること、お認め下さるようお願い申し上げる」

と、高須藩主・松平義淳の相続を希望した。

松平乗邑は「宗武相続」をあえてゴリ押ししなかった。乗邑には別の都合があり、正武の希望を聴いてやるほうが良いと思ったのだ。

別の都合とは、吉宗将軍の世子・家重のことである。

家重には言語障害と頻尿があるうえ、能力も弟・宗武に劣った。このことから、「宗武様を外に出さないほうが良い」と思ったのだ。

松平乗邑は正武との会談後、吉宗将軍に

「御三家の領地は権現様が与えし聖地。これを取り潰すは権現様への不孝。また、尾張藩には分家・美濃高須藩に男子があり、分家が本家をご相続されるのが応分かと思いまする」

と言上した。

これを聴いた吉宗将軍は尾張藩改易と宗武の尾張藩相続を諦め、「左近将監のよきに計らえ」とした。

こうして徳川宗春は隠居謹慎処分となった。