【2012年10月30日】
外様の小藩で、特にこれといった名君がいただとか名家老がいただとかいう訳でも無かった。
どこの藩でもそうなのだが、幕末になると藩の中が「佐幕」と「尊皇」の二派に分かれることがあったが、村松藩もそうなったうちの一つだった。
万延元年7月12日。
越後村松藩主・堀 直休急死。
跡を養子の堀 直賀が継いだ。
このときから、前藩主・直休の側近だった者たちと堀家門閥の堀 右衛門三郎の一派が対立するようになる。
直休側近グループは水戸浪人・杉山弥一郎と近かったことから尊皇に傾いた。
彼等は
正義党
と名乗った。
杉山弥一郎というのは桜田門外の変で井伊直弼を襲撃した一人である。
対して、堀 右衛門三郎たち門閥グループは正義党に対抗するため佐幕派となり、隣藩の会津藩に通じた。
慶応3年5月19日。
村松藩は正義党の主要メンバー7人を処刑した。
これを、
村松七士事件
と呼ぶ。
7人の処刑には会津藩の人間が立ち会っていることから、この処刑には会津藩が介入していることがわかる。
7人の処刑理由は新発田藩尊皇派との接触が直接理由になっている。その新発田藩尊皇派の人間が新発田と村松を往来しているのを確認したのが会津藩の警察部隊で、このことから見ても会津藩が村松藩に深く介入していたことがわかる。
処刑された正義党の7人は
稲垣覚之丞
佐々耕庵
下野館平
岡村定之丞
山崎弥平
中村勝右衛門
泉 仙助
で、処刑されずに生き残った正義党の近藤安五郎は
と、直賀に代わる新藩主擁立のために奔走を始めた。
会津藩が村松藩に介入した理由は単に村松藩門閥グループを支援するためでは無い。
松平容保は越後全体を佐幕一色にするため、その足掛かりとして村松藩に介入したのだ。
会津藩は越後国内にも領地を持っていた。その領地の隣が村松藩だった。
また、容保の実弟である伊勢桑名藩主・松平定敬も越後国内に領地を持っていた。
会津・桑名の「佐幕二藩」は「越後一国を佐幕にしよう」と考えた。