【2013年1月22日☆】
享和3年12月23日。
名をば、松平慶三郎という。「慶ばしい三番目の息子」という意味で慶三郎と名付けられたが、慶三郎にとってちっとも慶ばしくない出来事が発生する。
文化元年。
使者は
「分家・美濃高須藩の養子に保友様を貰い受けたい」
と言った。
水戸藩主・徳川治保は部屋住みの息子を片付けることが出来るというので二つ返事で了承した。
水戸藩にとっては都合が良かったが、養子に行く松平保友にとっては問題があった。
それは、保友には子供が三人いることだった。
水戸藩は35万石。
なので、生活費に困ったときに援助を仰げたが、高須藩は3万石なのだ。
高須藩からは
「保友様高須入封にあたっては、篤之助君(のちの松平義質)と範次郎君(のちの松平義建)までということで…」
と言われてしまった。
篤之助は保友の長男なので、当然連れて来ても構わない。また、次男の範次郎も篤之助に不慮のことがあった際の相続人なので、これも連れて来て構わない。
ただ、三男の慶三郎は「3万石の藩で、二人目の部屋住みは面倒見切れない」というのが高須藩の言い分だった。
松平保友は、泣く泣くかわいい三男坊を手放して高須へ行くこととなった。
しかし、置いて行くと言われても、水戸藩も困るのだ。35万石といえども、水戸藩の財政は決して裕福では無いのだ。
そこへ、どこでこの話を聞きつけたのかは不明なのだが、会津藩家老・田中玄宰が慶三郎のことを知って徳川治保のもとへ足を運んだ。
田中玄宰。
会津藩の財政を建て直した名家宰だ。
玄宰は
「慶三郎君を、会津藩で貰い受けとうござる」
と徳川治保に直接申し入れた。
玄宰の申し入れには理由があった。
嗣子・松平容衆がまだ2歳だったため、夭折を恐れた玄宰が慶三郎を養子に貰おうと画策したのだ。
玄宰は慶三郎を会津に連れて来ると、インチキの出生届を作成して幕府に提出した。
出生届には
松平慶三郎
文化3年4月28日生まれ
父・松平容住
母・側室の白岩某
と記載された。
田中玄宰がインチキの出生届を作成してまでも水戸藩から貰ってきた慶三郎。
松平慶三郎。