【2012年6月29日】
慶長16年6月24日。
享年50。
そして、清正の死後、ある一人の男性が殉死した。
その者、名をば
良甫鑑(リャン・ポカム)
という。
名前からわかるように、朝鮮人である。
彼はもともと文禄の役で朝鮮の二人の王子とともに捕虜にされたが、清正の人柄、そして清正軍の規律の正しさ等を見て、
「感動しました。私は清正様にお仕えしたいです。私も日本に連れて行って下さい」
と清正に頼んだ。
清正は「おまえの好きにしろ」と言い、臣従を許可した。
良甫鑑が感動したのには、それなりの理由がある。
当時の朝鮮王朝は民政にデタラメな部分があった。
そのため、良甫鑑や朝鮮の二王子が捕らえられたのは咸鏡道会寧だが、これは清正軍が良甫鑑たちを捕らえたのでは無くて、会寧の住民たちが良甫鑑たちを捕らえて清正軍に差し出したのだ。
「金官」とは当時の朝鮮王朝の会計担当者にあたる官職で、良甫鑑は清正のもとでも会計能力を買われて200石を与えられた。
良甫鑑は日本に来たのちは「清正一筋」で生きてきた。日本人顔負けである。
「清正一筋」でいられたのには清正自身の人柄にもある。清正は自分に仕える者たちをまるで自分の家族のように大切にした。
良甫鑑もそんな清正を慕った一人だ。
しかし、ここから書くことについて、良甫鑑が知っているかどうかはわからない。
清正が生前、良甫鑑に打ち明けている可能性はあるが、黙って墓の中まで持って行った可能性もある。
清正は良甫鑑を捕虜にした当時、肥後半国30万石を領していた。
肥後へ転封になる前、秀吉は清正に
「肥後半国と讃岐一国、おまえ、どっちが欲しい?」
と希望を聞いている。
清正は
「讃岐一国の国持も憧れますが、親父様は先にある唐入りを見据えているはず。ならばこの清正、唐入りの先陣として働くためにも肥後半国を頂戴しとうございます」
と答えた。そして清正の望み通り、唐入り(朝鮮出兵)の先陣となった。その唐入りで捕らえたのが良甫鑑なのだ。
こういったことを清正が良甫鑑に喋ったかどうかは、わからない。
しかし、喋ったところで良甫鑑の気持ちは変わらなかっただろう。だから良甫鑑は殉死したのだ。
熊本城の西北に位置する本妙寺。
ここに、清正と良甫鑑の墓がある。