【2010年4月8日☆】
豊臣秀吉は生涯でただ一度、とても陰湿な手口で人のいのちを奪ったことがある。
柴田勝家が「北陸方面司令官」になったとき、この佐々成政は勝家の寄騎(部下)となった。
勝家は秀吉と仲が悪かった。それを知っていた成政は上司である勝家に気に入られるために秀吉をいじめ抜いた。
秀吉は勝家に対しては「オレと柴田どのは考え方が違い過ぎるから」と根に持つことは無かったが、成政に対しては
「あいつだけは、必ず殺してやる」
と腹の底に殺意を抱いた。
やがて秀吉が天下を取ると、成政は秀吉から肥後一国50万石を与えられた。
わざと与えたのだ。
秀吉は九州討伐の際に肥後国の状況を調べ上げ、
「こいつは使える」
と思った。
肥後国は南北朝時代以来、統一した国主がいなかった上に小領主や土豪等がそれぞれ好き勝手に割拠していた。
そんなこととは露知らず、成政は大喜びした。「サルめ。気前が良いではないか」と。
そして事態は秀吉の思惑通りとなった。
肥後国の連中は一国規模で一揆を起こした。江戸時代で言うところの「全藩一揆」というヤツだ。
「何故一揆が起きたのか、事情を聴きたいので大坂まで来て欲しい」
と成政に上坂を命じた。
大坂に出て来た成政に応対したのが石田三成だった。
三成は
「佐々内蔵助成政、領内の仕置き良からず、領民を苦しめ一揆を起こさしめたこと不届至極。よって、切腹を申し付ける」
と秀吉の命令を伝えた。
成政は抵抗もままならず、切腹して果てた。
成政が秀吉をいじめ抜いたことは誰もが知っていた。
なのに、秀吉は成政に肥後一国・熊本50万石を与えた。
これで、世間は切腹させた秀吉では無くて、肥後国を統治出来なかった成政に批判の目を向けるのだ。
秀吉はそこまで計算し、「わざと」成政に肥後一国を与えたのだ。
よほど成政が憎かったのだろう。
成政の死後、肥後一国は分割統治となった。