もずの独り言・はてな版ごった煮

半蔵&もず、ごった煮の独り言です。

松山城

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【2012年4月6日】

岡野金右衛門包秀。

元服前の名を九十郎という。

播磨赤穂藩士・岡野包住の嫡男で、浅野家取り潰しののち吉良邸討ち入りに参加した。

赤穂城明け渡しの際には父親とともに籠城討ち死にを主張した硬骨漢だった。

結局、無血開城に決まり、病気の父親に代わり討ち入りメンバーに加わった。

江戸に出た金右衛門は麹町の前原伊助が営む商店で働きながら討ち入りの機会を窺っていた。

のち、金右衛門は変装等の工作が成功し吉良邸へ潜入。吉良邸絵図面の作成に成功する。カメラも映像撮影器具も無い時代のことだ。金右衛門の絵図面がどれだけ討ち入りに貴重だったかがわかるだろう。

この絵図面作成は、のちにドラマ等で大工の妹・お艶から絵図面を入手する恋物語にされることが多い。

大工は吉良邸を作った本人で、その絵図面をお艶の恋心を利用して入手するというものだ。また、お艶を姪や娘と設定する作品もある。

無論フィクションだが、金右衛門がモテ男だったことは事実で、金右衛門が江戸に出て討ち入りに行くまでに何人も女性を泣かせたかと思うと同じ男として羨ましく思ったりもする。

討ち入りでの金右衛門は十文字槍を手に奮闘した。

そして吉良の首を挙げ泉岳寺へ到着すると、泉岳寺の修行僧から「一句詠んで下さい」とせがまれた。

金右衛門は大高源五同様、俳人として知られていた。

金右衛門は修行僧の求めに応じ、

その匂ひ

雪のあしたの

野梅かな

と一句詠んだ。

「野梅」とは吉良の首を指す。

そしてこれが金右衛門の辞世となった。

金右衛門の身柄は伊予松山藩久松松平家へお預けとなった。

松山藩主・松平定直は初め預かった赤穂浪人たちを罪人扱いしたが、江戸っ子たちの批判を聞いて待遇を改めた。

また、金右衛門や大高源五俳人としても名が通っていると知るや、松山を「俳句王国」にした定直は老中職・土屋政直に浪人たちの待遇改善の要望書を提出した。

細川・水野・久松松平からの待遇改善要望書について土屋は全て許可した。

土屋はもともと赤穂浪人支持派で、綱吉将軍に対して赤穂浪人助命を主張した一人でもある。

初め罪人扱いした松平定直も、赤穂浪人たちに接し続けるうちに「こいつら全員助けてやりたい」と思うようになった。

しかし、それは叶わなかった。

岡野金右衛門、享年24。

赤穂浪人の中で最も「恋多き男」だった彼は江戸での叶わぬ恋物語を胸に黄泉路へと旅立った。