もずの独り言・はてな版ごった煮

半蔵&もず、ごった煮の独り言です。

鶴ヶ城公園(会津若松城)

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【2013年1月8日】

明治10年4月14日。

陸軍中佐兼征討軍参謀・山川 浩は薩摩軍の包囲を突破して熊本城に入城した。

「敵の囲みから城に入るのは、これで二度目か」

「二度目か」

二度目という言葉を小さな声で繰り返した山川の胸に、戊辰戦争のことが去来した。

戊辰戦争の際、山川は会津藩家老である父・山川重固の跡を継いで1,000石の家老職だった。

山川は日光方面で新政府軍と戦っていたが、撤退して会津若松城に籠城するよう命令が下ったため会津へ引き返した。

が、会津若松城は新政府軍に包囲されていて、これでは城に入れない。

そこで山川は会津若松伝統芸能・彼岸獅子を軍勢の先頭に立てて進軍した。

新政府軍の連中が「何だありゃ!?」と彼岸獅子を珍しい眼で見ているうちに山川は「それっ!今だ!」とそのまま城へ入って行った。

これが一度目の入城の話で、山川は会津藩家老として最後まで籠城して戦った。

山川の妻は北原登勢という女性で、登勢は籠城戦の最中に爆死してしまう。

登勢の死後、山川は他の女性と関係を持ったこともあるが、結局子供は一人しか生まれず、その子供も海外で客死してしまった。

山川はのちに男爵となって華族として家を創設するが、山川の跡を継いだのは妹・常盤夫婦の血筋だった。

山川が陸軍に入るきっかけになったのが、新政府軍として山川と戦った谷 干城の推薦だった。

谷は会津武士として生一本な山川を評価していた。また、山川も谷をいのちのやり取りをした相手として一種の好感を抱いていた。

一度敵味方になったからと言って怨みが残り続けるかと言えば、そうはならないのが武士階級だ。

山川や谷が生きた時代より260年以上前、関ヶ原の戦いのあと、徳川の家臣である井伊直政が石田方に付いた島津義弘を許すよういえやっサンに頼んだのと似ている。いのちのやり取りをした相手だからこそ、戦いが終われば相手を気遣い思いやるのだ。

明治6年、谷の推薦で陸軍に入った山川はやがて陸軍少佐になり、西南戦争のときは陸軍中佐に昇進していた。

一度目の入城では賊軍だったが、二度目は政府軍として熊本城に入城した。

「二度目か」

小さな声で繰り返した山川は、戊辰戦争からたった10年ちょっとで境遇がこんなに変わるのかとも思った。賊軍である薩摩軍の総大将・西郷隆盛は、戊辰戦争のときは新政府軍総大将・西郷吉之助だったのだから。

「山川君、二度目か。最初が彼岸獅子。今度は政府軍参謀だな」

熊本城に籠城していた谷 干城は山川との久しぶりの再会で笑みを浮かべてこう言った。

薩摩人

みよや東の

丈夫が

提げ佩く太刀の

利きか鈍きか

これは山川が西南戦争の際に詠んだ歌だが、山川は西郷に対して「薩摩人、見よや東の丈夫(ますらお)を」と言いたかったのだ。

山川をはじめ旧会津藩出身者は西南戦争会津藩名誉回復のための戦いと位置付けていた。

新政府下で警視庁に入庁し、この戦争で戦死した佐川官兵衛会津人だ。

西南戦争後、大佐に昇進した山川だったが、明治19年に高等師範学校校長に任命されたのを機に山川は教育者の道を歩む。高等師範学校はのちの筑波大学だ。

山川は生徒たちをまっすぐな人間に育てようとした。

それは、山川の根底に

会津こそが官軍、薩長が賊軍」

という思いがあったからだ。

根拠はある。

孝明天皇御存命のみぎり、天皇御自ら御宸翰をしたためて会津藩主・松平容保に下賜されている。

その御宸翰には

会津が正義、長州が賊」

と明記されている。

孝明天皇崩御されたため、薩長坂本龍馬岩倉具視明治維新を成し遂げたが、山川たち会津人から見れば明治維新孝明天皇の御叡慮に反した明治天皇による親不孝の革命なのだ。

親不孝の革命で成立した新国家・ニッポン。

その新国家を支える子供たちにはまっすぐな人間であってほしい。

教育者・山川 浩はそう強く願った。

山川も含め、旧会津藩出身者には死ぬまで貧困が付いて回った。

名誉を回復したと言っても、それは山川や新政府に登用された一部の者たちであって、その他の旧会津藩出身者には賊軍のレッテルが残り、貧困から抜け出せない者が多かった。

そんな貧困の旧藩の連中を山川は冷たく見捨てられなかった。貧困の連中がカネの無心に来ればカネを渡した。そのため、山川自身も晩年まで経済的に苦労した。

貧困は旧藩の連中だけでなく、旧藩主・松平家も同様だった。

浩の弟・健次郎は会津松平家の家政顧問(家宰)を務めたが、健次郎は松平家が経済的に困窮して首が回らなくなると、長州の三浦梧楼に「あなたから山県公(山県有朋)に会津松平家を救ってほしいと頼んでほしい」と頭を下げた。

三浦は「かつての賊軍の生活費なんて、我々(長州閥)に頼るな」と言って断ったが、健次郎は

「先帝(孝明天皇)の御宸翰、いまの陛下にお見せして生活費をせがんでもいいんですか、三浦さん?」

と三浦を脅した。

権力の世界ではレジテマシーが大きな影響力を持つ。親不孝の革命を裏付けてしまう御宸翰など表に出ては困るのだ。

三浦は山県に相談して会津松平家のために生活費を捻出した。

御宸翰の精神を忘れずにまっすぐな若者たちを育てた山川 浩。

御宸翰の存在を利用して旧藩主家の生活費を捻出させた山川健次郎

会津が正義、長州が賊」

御宸翰の精神は維新のあとにも引き継がれた。

明治31年2月4日。

陸軍少将・男爵、山川 浩は東京で死去した。

享年54。