もずの独り言・はてな版ごった煮

半蔵&もず、ごった煮の独り言です。

姫路城

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【2008年3月4日】

『東に傾く姫路の城は、花のお江戸が恋しいか』

姫路城は池田輝政が築いた最高傑作なのだが、江戸時代は建築物の維持技術があまり発達していなかったので、城のあちらこちらが変形してしまい、それはそれはタイヘンだった。

冒頭の里謡は変形しまくりの姫路城を皮肉ったモノだ。

イヤだったろうなァ、姫路藩主。

だってさ、電気の無い時代にさ、夜になってミシミシッメキメキッていうんだぜ。

藩主だけじゃねえな。宿直の藩士だって「ミシミシッ、メキメキッっていうんだよなァ」って、ボヤいてたんじゃねえの。

福山城

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【2008年3月7日☆】

昭和53年、福山城水野勝成阿部正弘銅像が建てられた。

ちょっとそんなことを思い出した。

舟付状遺構の調査が進むことは、福山地方の歴史に新しい発見があるかも知れないということ。

水野勝成入封前は、備後国に福山という地名は無かった。

舟付状遺構のみならず、福山城とその周辺を改めて調査することで、福山地方がどのような発展の道を歩んだかがわかるのではないか?そんな気がした。

駿府公園(駿府城)

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【2008年3月10日】

駿府は大御所家康が隠居所に選んだ場所だ。

ここで、大御所家康は手元に頼将(のちの頼宣)を置いて養育した。

大御所家康が少年頼将を可愛がったのは確かで、江戸の秀忠将軍は大御所家康の死後、頼将を紀州に飛ばした。

これは秀忠将軍が大御所家康に可愛がられた頼将を恐れたためだ。

代わって、駿府には徳川忠長が55万石で入封した。

関東から東海にかけてを自分の血筋で押さえようという秀忠将軍の意図である。

が、その意図は外れた。

忠長は何を血迷ったか、隠居した大御所秀忠に突拍子も無い要求をした。

「百万石か、大坂城

どちらか寄越せ、と大御所秀忠に要求したのだ。

かつて、忠長と同じ要求を大御所家康に出して越後高田70万石を棒に振ったのが松平忠輝だった。

忠輝のときは、大御所家康は取り潰してもいのちまでは奪わなかった。

大御所秀忠もいのちまでは奪わないつもりだった。

が、忠長の正式な処分を決めないまま病床についた。

家光将軍が忠長を賜死させる意思があったかどうかはわからない。

忠長にとって不運だったのが、家光将軍の側に執政職(大老)・土井利勝がいたことだった。

利勝は忠長に処分を伝える使者に阿部重次を選んだ。阿部重次は真面目一辺倒の男で、利勝はそこを見込んで使者に選んだ。

「そこを見込んで」というのは、いかなる処分であっても整然と忠長に言い渡せるという意味だ。

忠長の幽閉先の高崎に着いた重次は、忠長とごく短い時間会見してすぐ退出した。

そのすぐあと、忠長は太刀で首を刺し貫いて自害した。

発見したのは忠長の身の回りの世話をする係の女性で、忠長の遺体は高崎で葬られた。

実際に阿部重次が徳川忠長に何を言ったかは誰にもわからない。

が、ごく短い時間のやりとりが普通のやりとりでは無かったのは、家光将軍の死後重次が殉死しているのを見ればわかる。

重次の切腹は「商い腹」などでは無く、かなり早い段階から自害を考えていたものだ。

その原因が、忠長の死である。

阿部重次の子孫が阿部正弘。忠臣の血統だ。

駿府城は忠長改易後、城主は置かれず城代が置かれた。

今、駿府公園には毎年きれいな桜が咲く。

「あれは腹切り桜なのよ」なんて悪い冗談言わないでくれよ。

唐津城

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【2008年3月15日】

唐津藩主の中で有名なのが水野忠邦

天保の改革」と呼ばれる僅か1年でダメになった改革をやった人だ。

唐津藩は表高6万石に対して実高が24万石あった。

だから、水野家は唐津に居続けたほうが豊かでゆとりのある暮らしを続けていられた。

が、唐津藩には「海防警備」という役割があり、唐津藩主は奉書加判(老中)にはなれない。

どうしても加判之列(老中)に加わりたい忠邦は浜松への移封を望んだ。

ここから、忠邦の幕閣に対する賄賂に次ぐ賄賂攻勢が始まる。

唐津藩の金庫のカネはみるみる消えていった。

忠邦は自分が老中職(国務大臣)に就きたいという理由だけで移封運動を繰り広げた。家臣から見れば、迷惑なバカ殿だ。

このバカ殿に真っ向から反対意見を述べたのが家老・二本松義廉だ。

二本松は

唐津の実高は24万石ですが、浜松の実高は15万石しかありません。殿、どうか御再考下さりませ」

と忠邦に言った。

そんなこと言われても、「大臣病患者」の忠邦には通じない。

二本松は何度も何度も忠邦に浜松移封を思いとどまるよう言い続けた。

そして、もう何を言っても無駄だとなったとき、二本松は自害した。

自害して忠邦に抗議したのだ。諫死である。

この「大臣病患者」は希望が叶って浜松移封となった。

6万石に対して実高24万石だった唐津から、同じく6万石に対して実高15万石しかない浜松へ。

実高は減る、移封運動で金庫のカネはスッカラカン

が、忠邦の家臣の受難はこれで終わらない。

天保の改革」が失敗し、忠邦は老中職を罷免される。

罷免された忠邦にさらに追い討ちがかかる。

在職中の不正を追及されたのだ。

これで忠邦は隠居謹慎処分となり、水野家は1万石減知のうえ浜松から山形に飛ばされた。

山形での実高は7万石程度。

この「大臣病患者」のために水野家の家中はみんな迷惑した。踏んだり蹴ったりだった。

「二本松どのは正しかったなあ…」

水野家の連中は、みんなそう思った。

熊本城

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【2008年3月16日】

ああよかった。

唐津城のときは何を書くかで気ィ狂うかと思ったからな。

肥後国はもともと二分割されていて、熊本を本拠地とする加藤清正が30万石、宇土を本拠地とする小西行長が24万石を領していた。

関ヶ原の戦い小西行長がお取り潰しとなると、加藤清正が肥後一国を支配した。

清正が死に、忠広の代になると『牛方馬方騒動』と呼ばれる御家騒動が起こり、加藤家はお取り潰しとなった。

その後、細川忠利が熊本に入封した。

細川忠利には前領主・加藤清正、そして父・忠興(三斎)との比較がついて回った。

いつも比較。

来る日も来る日も比較。

忠利にとって胃の痛い日は死ぬまで続いた。忠利は父・忠興に先立ってこの世を去ったからだ。

父親との比較に苦しんだ大名は何人かいる。

武田勝頼がそうだ。

父親(信玄入道)が偉大過ぎたために押し潰された。

秀忠将軍もそうだ。

大御所家康との比較は死ぬまでついて回った。

二代目。

その家を長く安泰足らしめるために重要な存在だ。

忠利は幕府から忠興同様の信用を得た。

熊本54万石の安泰はこのとき決まった。

秀忠将軍は土井利勝と二人三脚で幕府の基礎を作った。

強固な土台を作ったのは家光将軍では無く、秀忠将軍だ。

そしてそれを土井利勝がよく助けた。

二代目には二代目の苦悩がある。

熊本城と細川忠利を思うと、そんな気持ちになった。

小田原城

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【2008年3月28日☆】

新年度から新しい生活が始まった人たちに向けて北条氏康のことを書く。

北条氏康は生まれつき神経質というか敏感というか、そんな感じの子供だった。

氏康は初陣のとき、恐怖のあまり馬上失禁してしまった。

これを恥じた氏康は小田原城に帰ると自害しようとした。

それを家老が見つけて止めた。

家老は、

「若殿が馬上でお漏らしをしたことを我等は笑いませぬ。お漏らしするのは『いくさが怖い』という素直な気持ちがお漏らしに繋がったのでござる。いくさを怖がらない大将は、いのちを大切にしようとしません。いのちを大切にしない大将のもとでは、家臣一同戦えませぬ。だから、我等は若殿のお漏らしを笑いませぬし、恥じることも無いのです」

と言った。

氏康はこの家老の言葉で救われた。

「臆病でも、いのちを大切に」

これが氏康を名将にしたきっかけだった。

臆病である自分を素直に受け入れることで、氏康は一皮むけたのだ。

これ以後、氏康は戦場で名乗るとき、必ず

「我こそは臆病者の北条氏康なるぞ!」

と名乗るようになった。

氏康は関東の上杉家の勢力を一掃し、その一方で武田・今川と『甲相駿三国同盟』を締結し北条氏を関東の覇者たらしめた。

新しい生活は期待と不安がセットになっていて当たり前。

臆病という欠点を逆手に取って一皮むけた氏康。

不安が大きくても気に病むことは無い。

大阪城公園(大坂城)

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【2008年4月8日】

大坂城って、書きやすいようで書きづらいんだよね。

だってさ、あそこ、秀吉と秀頼しかいないんだもん。城主が。

と、いうわけで、今日は大坂城代の話です。

「何故、大坂は城主じゃ無くて城代なんだ?」

そう思う人がいると思う。

大坂城徳川幕府にとっては「イヤな思い出」の塊だ。「トラウマ」と言い直してもいい。

徳川幕府は秀頼母子をあんな形で追い込んで挙げ句に自害させた。

大御所家康や秀忠将軍にその意図が無かったとしても、結局秀頼母子は自害した。

この「イヤな思い出」の土地をどうするか?

大坂の民衆は決して徳川幕府に心服しない。そう見た幕府は最初大御所家康の外孫・松平忠明を大坂藩主にしようとした。

だから、初代大坂城代松平忠明だ。

司馬さんの『けろりの道頓』はこの頃の大阪を書いた作品である。

が、松平忠明はたった3年で大和郡山に転封となった。

「(大坂の陣の)戦災復興が終わったから」

これが理由なのだが、実際のところは『なにわっ子』が徳川幕府に心服しないことにやりづらさと嫌気がさしたので、忠明が土井利勝に「オレもう嫌んなった」と国替えを要求したのだ。

土井利勝も「大坂に城主(藩主)を置くのは無理」と判断した。

これ以後、大坂城は城代が管理することになった。

京都所司代天皇・朝廷の監視役ならば大坂城代は西国大名の監視役だった。

城代と言っても城で寝泊まりするわけでは無く、大坂城代は大手門(追手門)の屋敷で寝泊まりしていた。

ただ、大坂城代は赴任の際、江戸城で将軍から白紙の委任状を手渡された。これは、「西日本の軍権委任」の意味も込められている。

だから大坂城代は幕府の組織図では老中の下にはなっていない。

大坂城代京都所司代は老中職と同格なのだ。

委任された軍権を行使した大坂城代は土井利位ただ一人だ。

土井利位は大塩平八郎の乱を鎮圧する際に軍権を行使した。

大坂城代の任期はだいたい4~5年。

統一した領主のいなかった大坂は他の土地とは違う、独特な風土になっていった。

熊本城

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【2008年4月9日】

細川重賢はもとは部屋住みで、家督相続する立場では無かった。

だから重賢はいつも植物の本ばかり読んでいた。

権力とは無縁のところで生活していた。

これが、兄であり藩主である宗孝の死によって一変する。

江戸城のトイレで板倉勝該という旗本に斬殺されたのだ。

人違いで殺害されたとも、汚水処理についてのトラブルがもとで殺害されたとも言われる。

宗孝には子供が無かったので、重賢が熊本54万石を相続した。

重賢が熊本藩を相続したとき、藩には40万両(200億円)の借金があり、藩財政はめちゃめちゃだった。

これを建て直したのが『宝暦の改革』だ。

このことから、重賢は紀州徳川治貞とともに名君と呼ばれた。

重賢が在職中つくったのが再春館だ。

そう、ドモホルンリンクルの再春館は重賢がつくった。

これは重賢が部屋住みの頃の植物好きを具現化したものだ。

藩祖・藤孝(幽斎)以来の『文化人DNA』がこういうところに出ているのかなと思った。

五稜郭公園(五稜郭)

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【2008年4月10日】

土方歳三の遺体は何処に行った?

遺体が発見されないことに歴史の面白さがある。

同じく、織田信長の遺体も本能寺の焼け跡からついに出てこなかった。

オレはあまり新選組に興味が無いから、正直な気持ちを言えば五稜郭にもあまり興味が湧かない。

五稜郭はオランダ人が設計したってことくらいしか知らない。

だから五稜郭についてはオレが人に教わりたいくらいだ。

姫路城

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【2008年4月10日】

「姫路城は奇跡の城」

先の大戦で姫路が空襲を受けたとき、姫路城下は全焼したのに姫路城は焼けなかった。

よく、「城郭や寺院は文化財だから爆撃の対象にはならない」なんて言うけれど、実際のところは「城も上空から見れば一つの建物にしか見えないから、文化財と見分けして攻撃するのは無理」らしい。

でもまあ、空襲にも焼けなかった奇跡の城。

縁起がいいね。