もずの独り言・はてな版ごった煮

半蔵&もず、ごった煮の独り言です。

高知城

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【2008年4月10日】

毛利勝永という武将がいた。

もとは豊臣家の軍事将校で、豊前小倉1万石の藩主だった。

文禄・慶長の役で活躍したこともあった。

関ヶ原の戦いで西軍に付いたため取り潰され、土佐の山内一豊にお預けとなった。

一豊は勝永に1,000石を与え、罪人扱いにはしなかった。

勝永は高知で10年以上を過ごした。

何事も無ければ、勝永は高知で妻子とともに穏やかな人生を過ごしたかも知れない。

が、そうはならなかった。

豊臣家の密使が高知の勝永のもとに来て「大坂城で豊臣家のために戦って下さい」と依頼してきた。

勝永はためらった。

妻子との平穏な暮らし。

関ヶ原で西軍に付いた罪人であるにも関わらず罪人扱いせずに1,000石を与えてくれた山内家。

あれこれ思うとなかなか決断出来なかった。

決断させたのは勝永の妻だった。

「豊臣家があなたのことを忘れずに頼ってくれるなんて、ありがたいじゃありませんか。もし、あなたがここを脱走して大坂に行って、そのことでわたしが山内家に殺されたとしても、わたしは喜んで浦戸の海の藻屑になります」

妻のこの言葉で勝永は吹っ切れた。

勝永は息子・勝家と高知を脱走した。

山内忠義は脱走を黙認した。

勝永に叔父・一豊同様の「真っ直ぐで不器用」な姿を見たからだ。

勝永の妻がその後どうなったのかは知らない。

大坂の陣は高知にも関係あるドラマなのだ。

勝永の戦場での活躍ぶりは当時日本にいた外国人宣教師にこう書かれている。

「大坂方には“サナダユキムラ”という者と“モウリカツナガ”という者がいて、目覚ましい活躍をしていた」

と。

また、戦場で勝永の戦いぶりを見ていた黒田長政が「あの武将は誰だ?」と側にいた加藤嘉明に訪ねると、嘉明は

「あれこそが毛利豊前守勝永だ」

と答えた。

長政は「文禄の役の頃はまだ子供だと思っていたのに、あんな立派な武将になるとは」と感嘆した。

大坂城落城後、勝永は行方不明になった。

もしかしたら、どこかに落ち延びて子孫を残したかも知れない。

和歌山城

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【2008年4月11日】

オレは吉宗ファンだからね。

吉宗将軍が紀州藩主時代、和歌山城の宿直の藩士が役目中に酒を飲んで城内の屏風を傷つけてしまった。

こんな不祥事は当時の常識では切腹モノなのだが、藩主吉宗は「今度から気をつけろよ」と口頭で注意しただけだった。

ただ、吉宗は「傷ついた屏風は修理せずにそのままにしておけ」と命じた。

これは「人間誰でも失敗するから、そんなことで切腹させたりはしないが、犯した失敗を忘れちゃダメだ」と吉宗は言いたくて「屏風はそのままに」と命じたのだ。

心ある権力者だったのだ。

吉宗が八代将軍に就任すると、紀州藩の領民は和歌山の海に向かってワーワー泣いた。

「オレたちの殿様を奪いやがって!江戸のバカヤローッ」と。

人をだいじにするから、人からだいじにされる。

当たり前のことなんだけど、その当たり前が出来ていないからおかしな事件が起こる。

松江城

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【2008年4月11日】

「台無し」

「水の泡」

「ぶち壊し」

今日書く松平治郷を表現すると、上記のような悪い言葉ばかり浮かぶ。

治郷が出雲松江18万石を相続したとき、松江藩の財政は破綻していた。

これを何とかするために治郷は朝日茂保(丹波)に財政についての全権を与えた。

朝日はまず全藩士に倹約令を出し、無駄を徹底的に省いた。また、治水工事を行い農作物の収穫量を増やした。

そのうえで、年貢率を四公六民から七公三民へと大幅に引き上げた。

四公六民を五公五民にしただけで一揆が起こる時代、七公三民にすることでどれだけ朝日に罵声が浴びせられたかが想像出来る。

朝日の苦労が実って松江藩財政は建て直され、藩の金庫にはおカネが貯まるようになった。

が、これを治郷がぶち壊しにした。

茶の湯好きの治郷は藩の金庫のカネを高価な茶道具を購入するために使い果たし、ついには藩財政を赤字に逆戻りさせてしまった。

朝日の努力は「台無し」となり、藩の金庫のおカネは「水の泡」、財政改革は「ぶち壊し」となった。

朝日はきっと、

「いい加減にしろよ」

と治郷に面と向かって言いたかったに違いない。

千秋公園(秋田城)

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【2008年4月14日】

佐竹義宣石田三成との友情を大切にしたために関ヶ原後、水戸54万石から秋田20万石に減移封された。

今日は佐竹家や久保田藩秋田藩)のことは書かない。

秋田美人について書く。

関ヶ原後、水戸から秋田へ減移封された際、大量の「佐竹難民」が発生した。

この「佐竹難民」こそが秋田美人の原型なのだ。

久松公園(鳥取城)

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【2008年4月15日】

久松と書いて「きゅうしょう」と読む。

鳥取城のことだ。

鳥取城は久松山に築かれた山城で、明治に入って陸軍省が城を解体したため石垣しか残っていない。

羽柴藤吉郎(のちの豊臣秀吉)の鳥取城攻めは「三木の干殺し、鳥取の渇殺し」と呼ばれ、徹底した兵糧攻めだった。

鳥取城の城兵は餓死者の人肉を食べて籠城を続ける有り様で、落城前の鳥取城は地獄絵図だった。

ただ単に空腹に苦しむだけではない。

人肉を食べることで城内に病気が流行る。

空腹と病気。

もちろん、城兵に戦う気力など残っちゃいない。

だから、兵糧攻めは戦場で流す血は少なくて済む。

が、違う意味で流血よりもヒドい地獄絵図になるのが兵糧攻めだ。

兵糧攻めの「先輩」が毛利元就

元就は月山富田城兵糧攻めで落とした。

秀吉よりもずっと後、松平信綱原城兵糧攻めで落とし島原の乱を鎮めた。

空腹はキツいんだよ。

これは、いつの時代もいっしょ。

鳥取城跡(久松公園)を見て、ちょっと思い出した。

長浜城

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【2008年4月15日】

長浜城ですか。

ま、秀吉飛躍の元になった城だからな。

秀吉は、信長に仕えているときが一番輝いてたんだよ。

オレはそう思ってる。

ずっと前にNHKで『利家とまつ』って大河ドラマをやった。

香川照之さんが演じた秀吉が実像に近いんじゃないかなって思う。

歳を取るにつれ、だんだん壊れていく(ダメになっていく)秀吉を香川さんは見事に演じきっていたと思う。

長浜城時代の秀吉は伸び盛りの時期で、信長のもとで働くのが楽しくて仕方ない時期でもあった。

「やり甲斐」

これって、おカネじゃ買えないからね。

その仕事が楽しくないと、「やり甲斐」って見いだせないからな。

長浜城時代の秀吉は「やり甲斐」を持って信長から与えられた仕事をこなした。

秀吉が大坂城に移ると、長浜城山内一豊に与えられた。

一豊も秀吉同様「仕事人間」。

面白い共通点だと思った。

鶴ヶ城公園(会津若松城)

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【2008年4月17日】

会津若松はもともと会津黒川という地名だった。

豊臣秀吉の『奥州仕置』によって伊達政宗会津黒川から岩出山に国替えになると、会津黒川には蒲生氏郷が94万石(公称100万石)で入封した。

会津黒川に入封した氏郷は「ここを松阪のようにしよう」と思った。

松阪とは伊勢松阪(現在の三重県松阪)のことで、氏郷は松阪12万石の城主だった。

松阪城主時代、氏郷は松阪を『商人の町』にした。

これは、織田信長の影響を受けたものだ。

氏郷は信長の娘婿だったところから、信長の貨幣経済・商業重視の考え方を色濃く受け継いだ。

これが『伊勢商人』の原型となった。

氏郷は会津黒川を「松阪の弟分(若い松阪)」というような意味合いで会津若松と改名した。

秀吉は天下を取ると、

「氏郷は御屋形様(信長)の娘婿で才能も人気もある。あんなヤツを大坂に近いところに置いといたらアブナイな」

と警戒し、氏郷を82万石も加増して松阪から会津黒川に飛ばした。

これが氏郷の会津黒川入封の理由だ。

氏郷は会津黒川に着くと、会津黒川城の柱にもたれて涙した。

「たとえ12万石のままでも、松阪にいれば飛躍出来たものを…」

そう言ってその日一晩涙した。

が、翌朝、もう氏郷はメソメソしてはいなかった。

城に家臣を集めた氏郷は

「この度、オレの石高は7倍近く増えた。いままで松阪で貧しい暮らしをさせて来たおまえたちに恩返しがしたい。そこで、ここにある紙に希望の石高を書いてくれ。あとでそれをオレが見るから」

と、紙切れを残して氏郷は退出した。

家臣たちは最初好き勝手を書いた。

氏郷に提出する前に重臣がチェックすると、「これでは殿の取り分が無いではないか」ということに気付いた。

重臣は「おまえたち、今一度考え直して紙に書け」と言い、全員に書き直させた。

書き直しをする中で、「おまえは多過ぎる」だとか「おまえ、ちょっと少ないんじゃないか」だとか家臣同士で議論になった。

氏郷はこうなることを見越して石高の分配を家臣任せにしたのだ。

これが、国家予算の制度の原型といわれる。

姫路城

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【2008年4月18日】

「太く短く生きる」

それが幸せなことかどうかは、本人にしかわからない。

「正直」と「身勝手」は紙一重

大須賀高胤という若者がいた。

1,000石の旗本の家の次男坊だ。

旗本の家の次男坊なんて、露骨に「穀潰し」とかって言われながら生きてかなきゃなんない。

運良くどこかの家に養子に行ければめっけモン。

そうでなけりゃ「穀潰しの厄介者」としての人生を送らなきゃならない。

旗本の部屋住みに不良者が多いのには、こんな事情がある。

高胤も何事も無ければそんな人生で終わっていた。

そんな高胤に最初の転機が訪れる。

兄・榊原勝久が病死したのだ。

それまで「お気楽部屋住みライフ」を満喫していた高胤は兄の跡を嗣いで1,000石の旗本となった。

名字も大須賀から榊原に戻し、

榊原勝岑

と名乗った。

旗本になった勝岑は部屋住み時代に比べて自由になるカネが増えた。

『オンナ好き』

32歳で死ぬまで治らなかったこの病気(?)はこのへんから悪化し始める。

兄の跡を嗣いでしばらくすると、2度目の転機が訪れる。

本家・播磨姫路藩主の榊原政祐が世継ぎを残さずに死んだのだ。

1,000石とはいえ分家は分家。

本家に跡取りが無ければ分家の者が跡を継ぐ。

とうとう「厄介者の大須賀高胤」は播磨姫路15万石藩主

榊原政岑

として大名デビューしたのだ。

「大名デビューしたら、ここに行かなきゃ!」

政岑は吉原の三浦屋に通うようになった。

また、この頃から贅沢をするようにもなった。

この頃、将軍は吉宗将軍で幕府は享保の改革を進めていた。

「吉原通いに露骨な贅沢とは。榊原は尾張同様、この吉宗の改革に反対なのだな」

吉宗将軍は徳川宗春同様、政岑にも目を付けた。

そんなことお構い無しで政岑は吉原通いと贅沢を続ける。

高尾という「お気に入り」が三浦屋にいた。

政岑はこの「お気に入り」を1,800両(9,000万円)で身請けした。

花魁を身請け。

吉宗将軍はついにキレた。

吉宗将軍は主席老中・松平乗邑に「榊原を取り潰せ」と命じたが、乗邑は「『榊原家は謀反のことが無い限りは取り潰さない』と台徳院様(秀忠将軍)がお墨付きを与えています」と取り潰しを思いとどまらせた。

榊原家は姫路から高田にトバされた。

政岑は罪人扱いで高田に護送され、2年後に死んだ。

太く短い人生だった。

弘前公園(弘前城)

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【2008年4月18日】

「愛のカタチ」

ま、人それぞれでしょ。

弘前藩津軽藩)の二代目・津軽信枚はイケメン児小姓・八木橋専太郎を巡って、家臣・高坂蔵人とホモの三角関係になった。

イケメン八木橋は、殿様(信枚)よりも高坂のほうが好きだった。

高坂は信枚の目をはばかり、同じく津軽家家臣・久里九兵衛の屋敷で八木橋と愛し合うようになった。

八木橋が久里の屋敷に行くようになったのを知った信枚は激怒した。

信枚は八木橋弘前城に呼びつけると

「この野郎ッ!誰彼構わず別の男と寝やがって!」

と、八木橋をお手討ちにした。

八木橋の処刑を知った高坂は「次はオレだ」と思い、南部藩への脱走を計画した。

が、この計画が漏れ、高坂は信枚の手の者に殺害されてしまう。八木橋と高坂に部屋を貸していた久里も殺害された。

高坂と久里の家臣は弘前城に銃弾を撃ち込むという報復に出た。

信枚は高坂・久里両家の一族郎党をことごとく処刑した。

この騒動で、弘前藩の家臣の数は半減してしまった。

似たような話が、家光将軍にもある。

家光将軍も若い頃はホモで、酒井某という旗本と坂部某という桶屋の息子とホモの三角関係になった。

この三角関係のもつれから、家光将軍は桶屋の息子を湯殿でお手討ちにしてしまう。

これが秀忠将軍とお江の方の心証を悪くし、忠長を偏愛する一因になった。

これを書きながら、「男同士なんて、理解出来ん」と思った。

理解出来んと思ったが、人を好きになったり愛したりするのは人間の感情としてそこにあるものなんだとも思った。

最上公園(新庄城)

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【2008年4月23日】

これって、新庄城だろ?

新庄城は戸沢政実が築いた。

二代目の戸沢正誠が藩主であること50年に及んだ。

50年というと、家斉将軍も在職50年だった。

清国の乾隆帝(高宗)は在任60年にも及んだ。

正誠・家斉将軍・乾隆帝に共通しているのが在職・在任の後半になると財政が悪化していくという点だ。

権力は腐敗するのだ。

新庄城を見て、そんなことを思った。