【2008年12月8日】
竹本義太夫が農家の出身だということに驚いた。
良い意味合いで大坂らしさがあると思った。
「トクガワ、なんぼのもんじゃ!」
秀頼母子が自害してから明治維新までの大坂はそういう土地だった。
「ネチネチやりよって。やらしいで、ホンマ」
関ヶ原から大坂の陣までのいえやっサンのやり方になにわっ子は260年間、腹を立て続けた。
土井利勝が「ここに藩を置くのは無理だ」と判断したのも頷ける。
父は杉森信義、母はきりという。
近松の本名は杉森信盛。
これがどこでどう間違ったのか、信盛は大坂に出て来て近松門左衛門になった。
「氏素性はどうでもええから、オモロイことやりいや」
大坂がパワー全開の都市になったのは年号が「元禄」となってからだ。
その「元禄」の頃に杉森信盛は大坂に出て来て近松門左衛門となり、竹本義太夫と出会う。
「芝居、浄瑠璃、芋蛸なんきん」
これは元禄の頃に大坂で生まれた言葉だ。
江戸っ子にはこの発想が無い。
江戸っ子には「お上の眼」がいつもついて回ったからだ。
「オモロイもん、ウマいもん」
これを生み出すパワーのある都市・大坂から竹本座は生まれた。
竹本・近松コンビは竹本座でヒットを連発する。
浄瑠璃を日本を代表する文化に昇華させたのは間違い無くこの二人だ。
このコンビは
『曾根崎心中』
という作品で大ブレークした。
女郎と手代が叶わぬ恋の末に情死するという話なのだが、これが大ヒットだった。
そういう世相だったのかな、とも思う。
「この世には男と女しかおらんのやから」
ごもっともだ。
これが心中モノの始まりだった。
近松はその後も心中モノを書き続けるが、人気が出れば出るほど、副作用ともいうべき問題が大きくなった。
浄瑠璃を見た人たちが影響を受けて心中する事件が多発したのだ。
ついに吉宗将軍は
心中禁止令
を出した。
また、「心中」という言葉を禁止用語にし、「相対死」と言い換えるよう命じた。
「んなアホな。何言うてまんねや!」
近松はきっと腹を立てたことだろう。
「江戸ことばで言う『野暮』とちゃいまっか?」
近松はたぶんそう言いたかったはずだ。
ただ、吉宗将軍は「基本は人のいのち」を貫いた人だから、心中の多発は耐えられなかったのだろう。
心中禁止令の翌年、近松は没した。