【2008年11月20日】
「勝てば官軍」
こんな言葉がある。
本当にそうか?
陸奥会津23万石松平家は戊辰戦争で薩長軍に敗れたため、戦後処理で会津から青森の斗南に減移封された。
石高は3万石だ。
松平家は窮乏していった。
明治も30年代に入ると、窮乏はどうにもならないところまで来ていた。
この頃、松平家の家政顧問だった山川健次郎は「奥の手」を使うことにした。
「奥の手」とは
孝明天皇の御宸翰
である。
この「奥の手」を使い、宮中=明治天皇から資金援助を得ようとした。
先帝の御宸翰。
山川はこれを長州出身の三浦梧楼に見せた。
三浦はギョッとした。
先帝の御宸翰には
会津が正義
と書かれていた。
これは御宸翰だ。
そのへんの関係者が書いた文章とは価値も重みもまるきり違うのだ。
だから、「長州を義、会津を賊」とする大義名分が得られたのだ。
ところがこの御宸翰ではそれが逆になってしまう。
御宸翰は「会津を正義」としているのだから。
また、維新を成した明治天皇は「親不孝」、薩長は「逆臣」となってしまう。
それは、
明治政府のレジテマシーの否定
に繋がってしまう。
「この御宸翰が広く知られてはならない」
三浦はそう思った。
三浦は長州の長老連中と相談し、松平家に資金援助をするようにした。
この御宸翰は蛤御門の変のあとに出されたもので、蛤御門の変では「長州が悪」ということで長州が都落ちした。
このときに、「会津は正義」という御宸翰が出されたのだから、孝明天皇が崩御されない限り、長州が正義にはならないのだ。
意地の悪い目で見たとき、レジテマシーというのは「都合」の応酬だろうとなるが、政治の世界ではとてもだいじにされる。
ときにそれは、人命よりも優先される。
だから、三浦はギョッとした。
「勝てば官軍」とは限らない、三浦はそう思い知ったかも知れない。
この御宸翰については司馬さんの『王城の護衛者』(講談社文庫)という作品にも出て来る。
会津若松城を見て、ちょっと思い出した。