【2008年11月25日】
慶安4年7月28日。
この日、紀州藩主・徳川頼宣が藩邸で幕府からの取り調べを受けた。
容疑は、謀反。
老中・松平信綱の手元には頼宣の花押の入った手紙があった。
この手紙は由比正雪に宛てたもので、謀反のことが書かれている。
信綱が「紀州様、この書状に覚えがございまするか?」と尋問すると、頼宣は
「知らん」
ときっぱりと答えた。
続いて信綱が「ここに紀州様の花押が入っておりまするぞ」と言うと、
「おい、ちょっと来い」
と加納という藩士を呼びつけてこう言った。
「オレは花押の管理をおまえに任せていたはずなのに、これはいったいどういうことだ」
言われてその藩士は「御免」と一言言って立ち上がると、隣りの部屋に入っていった。
そして、突如腹を切って死んだ。
遺体を見て血の匂いを嗅いだ酒井忠勝は具合を悪くした。
「もう止めじゃ。紀州様はシロ」
そう言って取り調べを打ち切った。
頼宣は涼しい顔で
「この度はこの者の不始末のために幕閣の皆様に御迷惑をお掛けした。しかしながら、その書状の花押、ワシの物で良かったわ。これがもし、他の国持大名の物であったら天下騒乱。この世は下剋上に逆戻りじゃ」
と言って大きく笑った。
あとに残ったのは屠腹した男性の遺体と血の匂いと後味の悪さだった。
「紀州め、なめんなよ」
と吐き捨てるように言った。
そして、幕府は頼宣に対し「江戸にいて、新将軍(家綱将軍)を補佐すべし」と命じた。
こうして頼宣は将軍補佐の名目で10年間江戸に足止めされた。
これは、幕府が頼宣を限り無くクロに近いシロと見ていたということだ。
この件は幕府に浪人政策を見つめ直させることになった。
家綱将軍以降は、綱吉将軍を除いては大名取り潰しの数を減らしていった。
自然と浪人の数も減っていった。
「謀反」という言葉は、これ以降聴かれなくなった。