【2008年10月27日】
弘前藩主・津軽信政と三男・那須資徳はよく一緒に神社仏閣に参詣したり、湯治に出掛けたりした。
父親と息子がたくさんの時間を向き合う。
今の社会でそんなことをする親子は少ない。
何故、信政は資徳と向き合う時間を作ったのだろう。
信政は資徳に「すまないことをした」とずっと思い続けていたからだ。
資徳はもともと津軽政直と名乗っていて、弘前藩の部屋住みだった。
烏山藩主・那須資弥の正室は幕府大老・土井利勝の娘。が、利勝の娘との間には子供は無かった。
側室に平岩という女性がいて、この女性がまず長男を産む。
長男は資弥の兄・増山正利の養子となり増山正弥と名乗った。
もう一人、次男がいた。
本来ならばこの次男が那須家を相続すればそれで良かったのだが、何を思ったか資弥は次男を相続権者から外し、福原という姓を与えて福原資寛と名乗らせて家臣とした。
何故相続権者から外れたのかは、よくわからない。
母親が女中だったからなのか、それとも資弥が言っているように「病弱だったから」なのか。
「病弱」というのは相続権者から外すときによく使われる理由で、「こいつどこから見ても健康じゃん」という者にも適用された。
津軽政直は信政と増山正利の娘の間に生まれた。
増山正利は那須資弥の実兄だ。つまり、姪の産んだ子供である。血は繋がっている。政直から見れば資弥は大叔父だ。
きちんと血が繋がっているというので幕府も「問題無い」と判断し、この養子縁組を許可した。そして政直は那須資徳と名を改めた。
資弥が死去し資徳が烏山藩を相続した約2ヶ月後、事件は発生した。
福原資寛とその生母が幕府に訴え出たのだ。
「この子は那須資弥の実子でございます」
と。
綱吉将軍は「実子があるのに養子相続とはけしからん」と烏山藩をお取り潰しにした。
2万石の大名を取り潰すのだ。単純計算で400人程度の失業者が出る。
この400人が再仕官(再就職)することは絶望に近いのが当時の社会だった。
烏山藩お取り潰しは資徳の精神に真っ黒い影を落とした。
弘前に帰って来た資徳に、父・信政は「すまないことをした」と思った。
信政は出来る限り資徳と向き合う時間を作った。
たとえ大名であっても「親子」。
我が子のこころの傷を一緒に受け止める。信政はその気持ちで資徳と接した。
のちに資徳は交代寄合(大名格の旗本)に復活する。