もずの独り言・はてな版ごった煮

半蔵&もず、ごった煮の独り言です。

弘前公園(弘前城)

f:id:Hanzoandmozu:20191119211351j:plain

【2008年10月27日】

弘前藩主・津軽信政と三男・那須資徳はよく一緒に神社仏閣に参詣したり、湯治に出掛けたりした。

父親と息子がたくさんの時間を向き合う。

今の社会でそんなことをする親子は少ない。

何故、信政は資徳と向き合う時間を作ったのだろう。

信政は資徳に「すまないことをした」とずっと思い続けていたからだ。

資徳はもともと津軽政直と名乗っていて、弘前藩の部屋住みだった。

そこに、烏山藩那須家から養子縁組の話が来た。

烏山藩主・那須資弥の正室は幕府大老土井利勝の娘。が、利勝の娘との間には子供は無かった。

側室に平岩という女性がいて、この女性がまず長男を産む。

長男は資弥の兄・増山正利の養子となり増山正弥と名乗った。

もう一人、次男がいた。

本来ならばこの次男が那須家を相続すればそれで良かったのだが、何を思ったか資弥は次男を相続権者から外し、福原という姓を与えて福原資寛と名乗らせて家臣とした。

何故相続権者から外れたのかは、よくわからない。

母親が女中だったからなのか、それとも資弥が言っているように「病弱だったから」なのか。

「病弱」というのは相続権者から外すときによく使われる理由で、「こいつどこから見ても健康じゃん」という者にも適用された。

津軽政直は信政と増山正利の娘の間に生まれた。

増山正利は那須資弥の実兄だ。つまり、姪の産んだ子供である。血は繋がっている。政直から見れば資弥は大叔父だ。

きちんと血が繋がっているというので幕府も「問題無い」と判断し、この養子縁組を許可した。そして政直は那須資徳と名を改めた。

資弥が死去し資徳が烏山藩を相続した約2ヶ月後、事件は発生した。

福原資寛とその生母が幕府に訴え出たのだ。

「この子は那須資弥の実子でございます」

と。

綱吉将軍は「実子があるのに養子相続とはけしからん」と烏山藩をお取り潰しにした。

2万石の大名を取り潰すのだ。単純計算で400人程度の失業者が出る。

この400人が再仕官(再就職)することは絶望に近いのが当時の社会だった。

烏山藩お取り潰しは資徳の精神に真っ黒い影を落とした。

弘前に帰って来た資徳に、父・信政は「すまないことをした」と思った。

信政は出来る限り資徳と向き合う時間を作った。

たとえ大名であっても「親子」。

我が子のこころの傷を一緒に受け止める。信政はその気持ちで資徳と接した。

のちに資徳は交代寄合(大名格の旗本)に復活する。