もずの独り言・はてな版ごった煮

半蔵&もず、ごった煮の独り言です。

姫路城

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【2009年9月2日】

本多中務大輔忠刻。

播磨姫路藩主・本多忠政の長男で、父親からも家臣からも将来を有望視された若者だった。

期待していたのは幕府も一緒で、忠刻の母・熊姫はいえやっサンの長男・信康の娘であることに加え、豊臣秀頼と死別した千姫の再婚相手がこの忠刻だった。

そのため幕府は「千姫の化粧料」という名目で忠刻に10万石を与えた。大名になっていないにも関わらず、だ。さぞかし裕福な「お気楽ライフ」だったであろう。

忠刻は武術、特に剣術が好きだった。その忠刻が二人の若者のことを知る。

宮本三木之助・九郎太郎の兄弟だ。

三木之助・九郎太郎は水野勝成の家臣・中川志摩之助の三男と四男で、大坂の陣のあと宮本武蔵の養子になっていた。

剣術好きの忠刻は早速この兄弟を召し抱えた。

忠刻は兄の三木之助に700石を与え、側近にした。

三木之助兄弟は忠刻が姫路藩主に就任したら栄転したかも知れないが、忠刻は31歳の若さで病死してしまう。

三木之助は忠刻の墓前で腹を切って殉死した。三木之助はまだ23歳だった。三木之助は辞世を残している。

思わずも

雲井のよそに

隔たりし

えにしあればや

供に行く道

忠刻・三木之助の頃はまだ殉死の習慣が残っていて、保科正之が殉死を禁じるのはもう少しあとの話だ。

三木之助の700石は弟・九郎太郎に相続が許された。殉死は確実に身内への相続が認められる。なので、当時は「商い腹」などというキチガイじみた殉死をする者もいた。

九郎太郎は二代目三木之助を襲名し姫路藩に仕えた。姫路藩は本多政勝の代に大和郡山に国替えとなり、二代目三木之助もこれに従って大和郡山に移住した。本多政勝は「九六騒動」の原因を作った人だ。

二代目三木之助には弁之助・小兵衛という二人の息子がいた。

二代目三木之助の跡は長男・弁之助が継いだのだが、弁之助には子が無く郡山宮本家は断絶した。

弁之助の弟・小兵衛は事情があって本多家を退去し、母や姉と奈良で浪人暮らしをしていた。

このことを知った備前岡山藩主・池田光政が小兵衛を江戸の岡山藩邸に呼び寄せて岡山藩に召し抱えた。

これは光政の妻・勝姫が夫に頼んでそうさせた。勝姫は本多忠刻千姫の間に生まれた娘だ。

勝姫は初代三木之助が忠刻に殉死したことを忘れてはいなかったのだ。

綱吉将軍の代になって、宮本小兵衛は岡山藩を退去し消息不明になった。

郡山を退去し、岡山を退去した小兵衛には「宮仕え」は向いてなかったのかな、と思う。