【2009年9月4日】
『直江状』
つい最近、『直江状』の全文が発見されたってニュースになっていた。
『直江状』はその存在について「あった」「なかった」の論争が続いていたけど、これで「あった」のほうがぐっと有利になるのかなと思う。
いえやっサンは『直江状』を手にしたとき、カッときたのと同時に
「山城守らしい、真っすぐな書状よ」
とその真っすぐさを評価した。
いえやっサンは口先だけの人間やお調子者を嫌ったが、たとえ敵でも骨のある人間には寛大だった。
上杉家は西軍の大将格の家なので、いえやっサンの家臣たちは「取り潰すべし!」と口を揃えて主張した。
それに対し、いえやっサンの出した答えは
「直江山城守に免じて、上杉家は120万石から30万石に減封とする」
というものだった。
いえやっサンは『直江状』を評価したのだ。
「米沢30万石は上杉景勝ではなくて、直江兼続に与えるのだ」とも言った。
豊臣恩顧の兼続の眼にはいえやっサンは「豊臣の天下を認めようとしないわからず屋」に見えた。
だから、兼続は『直江状』をいえやっサンに叩きつけた。兼続は越後にいた頃から「わからず屋」が嫌いだった。
会津若松に国替えになる前年、越後で事件が起きた。
兼続の家臣に三宝寺勝蔵という者がいた。
この三宝寺が五助という男を無礼討ちにした。
これに対して五助の遺族3人が兼続に
「五助の粗相は無礼討ちにされるほどのものではありませんでした。五助を生かして返して下さい」
と訴え出た。
ここがポイントなのだが、五助の遺族は「三宝寺を罰してくれ」とも「賠償金を払え」とも言っていないのだ。五助の遺族は「五助を生かして返せ」と言っているのだ。
兼続は困った。
最初兼続は
「賠償金を払う。おまえたち3人が一生生活に困らないくらいの額を支払う。これで許してくれ」
と言った。
が、五助の遺族は「五助を生かして返せ」の一点張りだ。
兼続は
「ならば三宝寺を処分すればよいのか?」
と問うと五助の遺族はやはり「五助を生かして返せ」の一点張りだ。
兼続はこの「わからず屋」たちに腹が立った。
兼続は紙と筆と銭を持って来た。そして、
「直江山城守家臣三宝寺勝蔵、下男五助を斬殺するも五助の遺族が五助をこの世に連れ戻したいとのことなので、閻魔大王の御慈悲をもって五助をこの世に連れ戻すよう願い出る次第である。ついては五助の遺族3人に銭を持たせて行かせますので何卒よろしゅうお頼み申す」
と書状を書き、五助の遺族の前に銭を放り投げると
「これが閻魔大王への書状じゃ。これを持って五助を連れ戻せばよい」
と、遺族に書状を渡してすぐ「斬れ!」と命じた。
3人は逃げる間もなくその場で首と胴が離れた。
「わからず屋」には断固とした処置を取る。
「温かさ」・「優しさ」の兼続が見せた厳しい一面だった。