【2010年8月26日】
酒井讃岐守忠勝。
若狭小浜12万石の藩主で、長いこと老中職・大老職を務めた。
文治派として知られ、幕府を軍事力による支配から法による支配に転換させた。
忠勝が大老職だった当時、上司には将軍補佐職・保科正之がいて、部下には首席老中・松平信綱がいた。
正之・信綱ともに文治派で、土井利勝のような「取り潰し至上主義」といった考え方はしていなかった。
土井利勝の死後、合議制の中心に座った忠勝が直面したのが浪人の問題だった。
浪人。
早い話が無職者であるが、彼等は元武士なので刀という武器を持っている。集団になれば立派な武装集団になるし、一人でいても強盗等の凶悪犯罪を起こせる。
忠勝は浪人について
「浪人など、ゴミ同然。在るだけ迷惑」
と公言した。
もともと幕府の取り潰し政策で浪人になった者を「ゴミ」と言っているのだ。
これに、松平信綱が噛みついた。
「御大老、ゴミとはちと言い過ぎではございますまいか。主家を失った者に罪はございますまい」
正論だ。
悪いのは取り潰されたトンチキ大名であって、彼等に罪は無い。
さらに言えば、秀忠・家光両将軍と土井利勝は陰湿な罠を使って取り潰したり、「無嗣」を理由に取り潰しをした。
特に「無嗣」は大名自身にも仕える者たちにも何の罪も無い理由だ。ただ、殿様に男の子が生まれなかっただけのことだ。
その無嗣収公で取り潰された家の浪人の増大が社会不安を大きくした。
由比正雪がそのいい例で、由比のもとに集まった浪人たちは
「どうせオレたちはゴミなんだろう」
と開き直って由比の謀反沙汰に加担した。
この状況に危機感を抱いたのは忠勝も信綱も一緒だった。が、忠勝と信綱では解決法に違いがあった。
忠勝は浪人を「ゴミ同然」と言ったが、これは忠勝が浪人に「死ね」と言っているのではなくて、帰農して欲しいと思って言ったのだ。浪人自身では無くて、浪人という身分を「ゴミ」だと言っているのだ。
これに対し信綱は「これ以上、浪人の数を増やさない」ということに重点を置いた。浪人の出ない社会を作れば良いというのが信綱の考えだった。
結局、将軍補佐職・保科正之が末期養子の禁を大幅に緩和したため、「無嗣収公」のケースはそれ以降減っていった。
これに比例して浪人の数も減っていった。