【2010年4月21日】
「おまえでも、我が子がかわいいのか?」
出羽鶴岡17万石、庄内藩祖・酒井忠次はいえやっサンからこう言われた。
この言葉はいえやっサンが長男・信康を失った悔しさを忠次にぶつけたものだ。八つ当たりでは無い。
徳川信康には粗暴なところがあった。そのため家臣からの人望が薄かった。
信康の妻・五徳は織田信長の娘で、尾張・三河同盟を固めるために徳川家に嫁いだが、夫婦仲は最悪だった。五徳は夫の横暴に耐えかね、ついに信長に信康を訴えた。
五徳からの訴えでは罪状は10ヶ条あった。
信長は酒井忠次を呼びつけ、10ヶ条の罪状について1つ1つ問い質した。
信長が問題視したのは10ヶ条のうちの1つだけだった。
「信康どの、武田勝頼と内通」
これについて忠次は否定しなかった。
信長は忠次が否定しなかったのを見て
「三河どのに伝えい。信康どの、御処断あるように、と」
と忠次に言った。
「同盟」と言っても織田と徳川は日米同盟みたいなもので、いえやっサンには「嫌だ」といえるほどの力は無かった。
たとえ乱暴者だろうと嫌われ者だろうと、いえやっサンは信康を一番可愛がった。
その信康を、切腹させた。
いえやっサンは「忠次が庇ってくれれば」と忠次を恨んだ。
が、忠次抜きの徳川軍などいえやっサンには考えられない。忠次は徳川軍の中核的存在だった。いえやっサンは怒りと悲しみを腹の底に沈めた。
忠次は秀吉の小田原討伐の前に隠居した。
いえやっサンが関八州に国替えになると、家臣たちには万石以上の領地が与えられた。
「徳川四天王」には
◆井伊直政
上野箕輪12万石
◆本多忠勝
上総大多喜10万石
◆榊原康政
上野館林10万石
◆酒井家次(忠次の子)
下総碓井3万石
が与えられた。
井伊・本多・榊原が10万石以上なのに、我が子家次はたったの3万石。
これに対して忠次が苦情を言い立てて、それに対する返事が冒頭の一言だった。
「子を思う父親の気持ち」
それを思ったとき、忠次はいえやっサンの前から姿を消した。
京都で暮らし、京都で生涯を閉じた。
庄内藩は忠次の孫・忠勝(小浜藩主・酒井忠勝とは別人)が出羽鶴岡14万石を与えられて立藩した。
井伊・本多・榊原に遅れて酒井家もまた10万石級の大名になった。
天国の忠次は、どんなふうに見ていたのだろうか。