もずの独り言・はてな版ごった煮

半蔵&もず、ごった煮の独り言です。

鶴岡公園(鶴岡城)

f:id:Hanzoandmozu:20191126173903j:plain

【2010年4月21日】

「おまえでも、我が子がかわいいのか?」

出羽鶴岡17万石、庄内藩祖・酒井忠次はいえやっサンからこう言われた。

この言葉はいえやっサンが長男・信康を失った悔しさを忠次にぶつけたものだ。八つ当たりでは無い。

徳川信康には粗暴なところがあった。そのため家臣からの人望が薄かった。

信康の妻・五徳は織田信長の娘で、尾張三河同盟を固めるために徳川家に嫁いだが、夫婦仲は最悪だった。五徳は夫の横暴に耐えかね、ついに信長に信康を訴えた。

五徳からの訴えでは罪状は10ヶ条あった。

信長は酒井忠次を呼びつけ、10ヶ条の罪状について1つ1つ問い質した。

信長が問題視したのは10ヶ条のうちの1つだけだった。

「信康どの、武田勝頼と内通」

これについて忠次は否定しなかった。

信長は忠次が否定しなかったのを見て

三河どのに伝えい。信康どの、御処断あるように、と」

と忠次に言った。

「同盟」と言っても織田と徳川は日米同盟みたいなもので、いえやっサンには「嫌だ」といえるほどの力は無かった。

たとえ乱暴者だろうと嫌われ者だろうと、いえやっサンは信康を一番可愛がった。

その信康を、切腹させた。

いえやっサンは「忠次が庇ってくれれば」と忠次を恨んだ。

が、忠次抜きの徳川軍などいえやっサンには考えられない。忠次は徳川軍の中核的存在だった。いえやっサンは怒りと悲しみを腹の底に沈めた。

忠次は秀吉の小田原討伐の前に隠居した。

いえやっサンが関八州に国替えになると、家臣たちには万石以上の領地が与えられた。

徳川四天王」には

井伊直政

上野箕輪12万石

本多忠勝

上総大多喜10万石

榊原康政

上野館林10万石

◆酒井家次(忠次の子)

下総碓井3万石

が与えられた。

井伊・本多・榊原が10万石以上なのに、我が子家次はたったの3万石。

これに対して忠次が苦情を言い立てて、それに対する返事が冒頭の一言だった。

「子を思う父親の気持ち」

それを思ったとき、忠次はいえやっサンの前から姿を消した。

京都で暮らし、京都で生涯を閉じた。

庄内藩は忠次の孫・忠勝(小浜藩主・酒井忠勝とは別人)が出羽鶴岡14万石を与えられて立藩した。

井伊・本多・榊原に遅れて酒井家もまた10万石級の大名になった。

天国の忠次は、どんなふうに見ていたのだろうか。