【2010年4月15日】
「徳川義直は春姫を愛していたので、なかなか側室を持たなかった」
本当にそうか?
実際に徳川光友が生まれたのが寛永2年、春姫が死んだのが寛永14年だ。
春姫が死ぬ12年も前に光友が生まれているではないか。光友の母親は家臣の娘だ。
美談を作りたかったのかな、とも思う。「義直公は名君」と喧伝したかったんだろうなあ、とも思える。
子供を作ることが義務だったこの時代、個人の愛情だけが理由で側室を持たないなんてことは、この時代の常識では考えられない。
たぶん、義直と春姫がラブラブだったことから周りの人間や後世の人間が大げさに美談に仕立て上げたのだろう。
春姫は大名の正室であるにも関わらず江戸住まいを免除された。「御三家特権」なのかも知れない。
このため、春姫は尾張藩代々の正室の中でただ一人名古屋城の本丸御殿で生活した。名古屋市で毎年4月に行われる春姫祭りはこのことに由来する。
浅野家は豊臣政権に影響力を持ち、池田家は織田政権に影響力を持っていた。
いえやっサンは浅野・池田両家の影響力に眼を付けた。それは秀吉が池田家の影響力を意識して池田輝政に三河吉田20万石を与えて豊臣政権の安定に利用したのと似ている。
いえやっサンは浅野幸長の娘・春姫を義直の嫁にもらった。また、幸長に紀伊一国・37万石を与えた。
さらには幸長の子・長晟と娘・振姫を結婚させた。振姫はもとは蒲生秀行の妻だったが、未亡人となったあと長晟と再婚した。振姫は長晟との間に光晟をもうけたが、産後の肥立ちが悪く38歳で死んだ。
光晟の血統は幕末まで続き、振姫の血が混ざっているということで浅野家は本家・分家ともに松平姓が与えられた。
ここまでいえやっサンが浅野家を重視したのは、浅野家が秀吉の正室・寧々の実家だからである。
いえやっサンは誰の眼から見ても簒奪者だ。
その簒奪を正当化させる作業の一環として浅野家との関係を強化した。
春姫を嫁にもらったのも、振姫を嫁に出したのもこうした理由によるものだ。
ま、アレだ。
政略結婚であれ、おしどり夫婦だったならそれでいいじゃんとオレは思う。