もずの独り言・はてな版ごった煮

半蔵&もず、ごった煮の独り言です。

丸亀城

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【2011年4月22日】

弘化2年10月3日。

讃岐丸亀藩主・京極高朗に一人の役人の身柄お預けが言い渡された。

その役人とは、元江戸南町奉行・鳥居甲斐守忠耀。世間一般に鳥居耀蔵と呼ばれる者である。

鳥居耀蔵は岡山まで陸路を行き、そこから船で丸亀へ渡った。そして丸亀藩指定の建物に幽閉された。

鳥居耀蔵水野忠邦の「虎の威を借る狐」として天保の改革を推進した人物である。

その性格は毒蛇のような性格で、天保の改革を推進するうえでは秘密警察を使って密告を奨励した。これが水野ともども天保の改革を江戸の庶民が憎む最大の理由となった。

さらに、耀蔵自身が江戸町奉行に就任するために先任者の矢部定謙を自害に追い込むといった歪んだ一面があった。

耀蔵は水野の「傘の下」で散々好き勝手をやったのだが、あろうことか耀蔵はその水野まで裏切った。だから、「毒蛇」なのである。

天保の改革で水野の命取りとなったのが上知令である。

これは、江戸と京坂の周辺の土地を大名・旗本から取り上げて(上知して)天領にしてしまおうというもので、当然、該当する地域に領地を持つ大名・旗本たちはみんな反対した。

さらに問題を大きくしたのが紀州藩の伊勢松坂18万石の上知である。当然、紀州藩は反対した。しかし、水野は聞き入れない。

上知令は日に日に反対意見が大きくなり、水野の立場が危うくなった頃、耀蔵はとんでもないことをしでかす。

耀蔵は上知反対派の次席老中・土井利位に水野の機密文書等を横流ししたのだ。

さらに、水野が紀州藩の猛抗議を受けて「松坂領は上知の対象外にする」と表明すると耀蔵は

紀州様も幕府の制度の中で生きておりまする。紀州様だけ除外では、御政道の筋が通りませんぞ」

と、わざと反対した。

これで上知令は頓挫、水野は首席老中を罷免された。

水野は耀蔵の裏切りを深く恨んだ。

自身の罷免後に耀蔵の在職中の不正を暴露して江戸南町奉行職を罷免に追い込んだ。

さらに翌年、奉行職を罷免された耀蔵に追い討ちがかかる。土井利位の辞職を受けて老中職に返り咲いた水野が再び失脚したのだ。

このとき、幕府内部では天保の改革の「精算と後始末」が行われた。

「鳥居甲斐守は、水野の改革に熱心だったではないか」

これで耀蔵の運命は決した。

耀蔵は丸亀で23年間もの長きにわたって幽閉生活を送ることになった。

毒蛇に対する報いである。