もずの独り言・はてな版ごった煮

半蔵&もず、ごった煮の独り言です。

二条城

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【2010年1月4日】

徳川慶喜

「最後の将軍」である。

二条城で将軍に就任し、二条城で将軍を辞職した。

また、二条城で「坂本を斬るなよ」と旗本連中に指示した。

慶喜はもともと水戸藩の部屋住みだった。

7男だったので、

七郎麿

と名付けられた。

水戸藩では嫡男は鶴千代と名付けるしきたりだが、次男から下はしきたりが無い。

徳川斉昭は男子22人・女子20人、合わせて42人の子供を作った。

男の子が22人もいたので、斉昭は次男から下は番号を名前にした。

次男は次郎麿、三男は三郎麿…という具合に番号を付けていった。

で、11人目が生まれた。「もうガキいらねえな」斉昭はそう思い11人目には

余一麿

と名付けた。露骨に「この子は余りもの」と名付けたのだ。

だったらそこで子作りやめりゃいいものを、また作り続ける。

で、20人目が生まれた。どうしようも無い人だ。

斉昭は20番目の子に

廿十麿

と名付けた。とうとう「ハタチ」になってしまったのだ。困った人だ。

で、廿二麿でようやく子作りをやめた。

この性欲の強さは慶喜にも引き継がれる。

子孫を残すのは「貴種」の義務。だからまあ、性欲は無いよりあったほうがいいんだけどさ。

ただ、上には上がいる。

家斉将軍だ。

家斉将軍は55人も作った。

どっちもどっちだよ、こんなの。

慶喜がまだ一橋家の当主だった頃、外国から豚肉料理が伝わる。

豚肉料理といっても、ただ焼いて食べるだけなのだが、当時の江戸の庶民は鳥は食べても獣は食べなかった。

慶喜は、豚を食べた。

このことが、江戸の町中に広まった。

江戸っ子は

「こいつ絶対アタマおかしいよ」

と思った。

ただ、それを露骨に口に出すと奉行所に連行されてしまうので、江戸っ子は慶喜にあだ名を付けた。

豚一殿

「豚肉食べた一橋殿」という皮肉半分、侮辱半分のあだ名である。

慶喜は「豚肉は栄養があって、からだに良い」と知っていて豚肉を食べた。だからこのあだ名が付けられたときも特に怒ったりはしなかった。

徳川慶喜は東京都台東区の谷中墓地に眠る。