【2012年9月13日】
ある日の夜、秀吉は側近数名を集めて雑談をした。
その雑談の中で秀吉は
「オレが死んだあと、天下人になるのは誰だと思う?」
と側近たちに質問した。
側近たちはいえやっサン、前田利家、上杉景勝、毛利輝元…と大封の大名の名前を挙げたが、秀吉はその一人一人を笑いながら否定し、
「オレの次の天下人はな、豊前中津にいる、あのびっこだよ」
と言った。
黒田官兵衛のことである。
黒田官兵衛は竹中半兵衛同様、秀吉の参謀として仕えたが、このときは大坂から離れた豊前中津(いまの大分県中津)に12万石を与えられていた。
「びっこ」とは官兵衛が摂津有岡城の戦いの際、歩行障害になったことを指す。
この日の雑談のことが中津にいる官兵衛の耳に入った。
官兵衛は隠居願を提出し、出家してさっさと第一線から退いた。
官兵衛は身の危険を感じたのだ。
話は、本能寺の変まで遡る。
当時備中高松城を攻撃していた秀吉のもとに「織田信長、本能寺に散る」の一報が伝えられた。
秀吉は周りが驚くくらいワーワー泣いた。涙と鼻水で顔をぐちゃぐちゃにして泣いた。
そこへ、官兵衛が
「殿、泣いている場合ではござらん。早く明智を討たねばなりませぬ」
と進言した。
秀吉はその場では「おお、そうじゃな」と返事をしたが、山崎の戦いのあとは官兵衛を遠ざけた。
官兵衛はこのとき気付かなかったが、「明智討ち」を進言したことが秀吉の警戒心を招いてしまったのだ。
秀吉は顔でこそ泣いていたが、心の中で官兵衛に対して
「こいつはオレと同じことを考えてるヤツだ。危ない」
と思った。
権力者から警戒されたとき、次に待っているのは賜死である。
官兵衛はそれを重々承知していたので、さっさと頭を丸めて隠居した。
秀吉の死後、関ヶ原の戦いが発生した。
このとき、官兵衛はケチくさく貯め込んだカネで兵を雇い石田方の城を次々と攻め落とした。
そしてあと一歩で九州全土を攻略というところで関ヶ原の戦いが決着。官兵衛の天下取りへの挑戦はここでゲームオーバーとなった。
秀吉の予言通り中津城主から天下人にはなれなかったが、黒田家は筑前一国・福岡57万3千石で身代を確定させた。
福岡に移ったあとの官兵衛は、秀吉を警戒させたあのギラギラした官兵衛では無かった。
城下の子供たちにニコニコしながらあめ玉を配る穏やかな晩年を過ごした。