【2012年2月24日】
慶応3年12月17日、備後福山藩主・阿部正方が20歳で病没した。
福山藩阿部家は藩主不在の状態で明治維新を迎えた。
福山藩阿部家には2つのグループがあった。
ひとつは、安芸広島藩主・浅野長勲の弟・元次郎を養子に迎えて新政府に恭順しようというグループ。
もうひとつは、死んだ正方の遠い親戚である阿部正学を藩主に迎えようというグループ。
前者は国許・福山を中心としたグループで、後者は江戸を中心としたグループだった。また、これは前者が新政府寄りで後者が佐幕だったことを意味する。
浅野元次郎を養子に迎えようとするグループは、福山藩とも新政府とも良好な関係だった広島藩浅野家から元次郎を養子に迎えることで生き残りを計ろうとした。
計画は成功し、浅野元次郎は備後福山藩主に就任し、
阿部正桓
と名を改めた。
そしてその阿部正桓と結婚したのが阿部寿子である。
阿部寿子は嘉永3年12月27日に生まれた。
父はかつて首席老中として日米和親条約を締結した阿部正弘、母は側室の歌山である。
初めは薫子や久子と名乗ったが、のちに寿子とした。
初め、武蔵忍藩主・松平忠誠に嫁いだが離縁された。この離縁について、阿部家側の記録にはあるが松平家側の記録には無い。相当複雑な事情があったのだろうと推察される。
その後、後家さん生活を送っていたが、浅野元次郎と再婚した。
しかし、この結婚は奇妙な過程を辿る。
寿子は阿部家の人間としてでは無く、越前福井藩主・松平茂昭の養女として元次郎と再婚したのだ。これは阿部正弘の娘ということを隠して結婚したことを意味する。
福山藩と福井藩の関係は阿部正弘と松平慶永との関係に始まる。以降、阿部家と松平家は友好関係を保ち続けた。寿子が福井藩松平家の養女として再婚したのにも、この関係が影響している。しかし、何故正弘の実の娘として再婚出来なかったのかについては、よくわからない。
阿部正桓が藩主となったことで福山藩は無事維新の嵐を乗り切り、阿部家は伯爵を与えられて華族となった。
一方、佐幕派が推した阿部正学はのちに福山市長に就任し、最期は東京で没した。
阿部正桓と寿子の結婚生活は相思相愛だった。
阿部寿子は明治17年9月30日に39歳で他界した。
のちに正桓は肖像画家・五姓田芳柳に一人の女性の肖像画を描かせている。
面長で、鼻筋の通った美女。この女性こそが阿部寿子である。