【2012年1月20日】
松平忠直は結城秀康の嫡男だったが、不祥事を理由に除封になり、代わって次男・忠昌が福井藩を継いだ。このため、幕府では忠直の血統を「宗家」、忠昌の血統を「本家」とした。忠昌の血統を一格上に置いたのだ。
この扱いは明治に入っても続いた。
維新後、福井藩松平家には伯爵が与えられ、津山藩松平家には子爵が与えられた。
津山藩松平家の家臣たちの間にはこの叙爵に不満を持つ者が多かった。
「津山は嫡流、福井は弟筋ではないか」
そんな中、明治21年1月、津山藩松平家の人たちの神経を逆なでする人事が行われる。
「おのれっ!福井藩何するものぞ!」
不穏な雰囲気を察知した明治政府は同じ年の11月、津山藩松平家の部屋住み・松平 斉を分家させて男爵を与えた。斉は「ひとし」と読む。
明治政府は福井藩の陞爵に対する不満を斉の男爵叙爵でかわそうとしたのだ。これは明治政府なりに福井藩と津山藩のバランスを取ったものでもあった。
こんな環境下で松平 斉は育った。
しかし、特権階級のしがらみやいざこざなんて斉は気にしない。斉は東京帝大理学部に入学し、大好きな植物学にのめり込む。
時々フラッと出かけては山歩きをして植物の研究をする。そんな生活を続けていた。
そこへ、縁談が持ち上がる。相手は徳川慶喜の七女・浪子で、斉より6歳年下だった。
斉の頭によぎったのは
「妻子が出来たら、気ままな研究生活が壊される」
ということだった。
明治29年、この気乗りのしない結婚をした斉は7ヶ月の我慢ののち、とうとう失踪した。
斉は浪子が妊娠5ヶ月であることを確認し、「跡継ぎをつくる義務は果たした」と失踪した。
津山藩松平家では斉の失踪を隠蔽するために斉の所得税23円余りを納税する等、あの手この手で隠蔽し続けた。
そして世間の目が日露戦争に向いている明治37年5月20日、津山藩松平家は浪子が生んだ斉光にこっそりと家を継がせた。
こうして世間では松平 斉が失踪したことを一切気付かないまま、松平斉光がいつの間にか新当主になっていたのだ。
松平 斉がいつどこで死んだのかは誰にもわからない。
そのため、家系図の斉の死亡年月日は空欄である。