【2013年2月5日】
ここに、開善寺という臨済宗の寺がある。
この開善寺に一人の大名が葬られている。
その大名、名をば
小笠原真方
という。
「小倉新田」というのはちょっとヘンテコな名前だが、当時、小倉藩に限らず家禄にゆとりのある家は気前よく弟や身内に領地を分けて分家させた。その際、表向き「領地のうち、新墾田(新田)を分知(分ける)する」としたので、こういう分家はたいてい「○○新田藩」と呼ばれた。
小倉新田藩は、1万石だった。
当時の豊前小倉藩主・小笠原忠雄が同母弟の真方に1万石を分知したのだ。
しかし、これは新田分知なので本藩の豊前小倉15万石の石高は減少しない。
母は側室の那須藤。
このときすでに忠真には正室・亀姫との間に嫡男・長安がいたが、長安は廃嫡されてしまう。
こういった経緯で忠雄は嫡男となり、そのまま豊前小倉15万石を相続した。
そのため、忠雄は同母弟である真方をとても大切にした。
寛文11年9月23日。
新田1万石を分知された真方は小倉城下に篠崎館を建設し、そこで生活した。
小倉新田藩の運営は本藩である小倉藩と真方の家老たちが担ったので、真方の藩主としての出番は無かった。
が、真方は表向きは小倉新田藩の藩主だ。大名なのだ。
大名である以上、真方は義務として参勤交代をしなければならない。
小倉から江戸への船旅。
気の遠くなるような日数と、莫大な費用をかけ、この1万石のお殿様は1年ごと江戸と小倉を往復する。
その真方に、悲劇が訪れる。
宝永6年7月5日。
この日、山陽地方から四国の瀬戸内海側の地域は暴風雨に見舞われた。
その暴風雨の中、小笠原真方を乗せた船は海路小倉への帰国の道中だった。
船は、讃岐国の小豆島にさしかかった。
小豆島。
オリーブやそうめんで有名な、あの小豆島だ。
小豆島の坂手浦にえびす岩という岩礁があり、真方を乗せた船はえびす岩に衝突。そのまま座礁・沈没した。
真方以下31名、溺死。
事故を知った小豆島の島民が総出で事故の処理にあたり、20日間かけて生存者の救出や遺体の引き上げを行った。
大切な異母弟の死。
しかもそれが畳の上ではなくて、瀬戸内海での溺死。
小笠原忠雄の悲しみは深く、そして大きいものだった。