【2008年6月2日】
秀吉が少年の頃、養父のいじめに耐えかねて家を飛び出し流浪したことはよく知られる。
このとき、実は秀吉は一人で流浪したわけでは無かった。
五さという女性が秀吉の面倒を見ていた。
この五さが秀吉とどのくらいの仲だったのか、それはわからない。
ただ、面倒を見続ける中で、ひょっとしたら肉体関係があったのかも知れない。
秀吉の流浪は我々が思うような孤独な流浪では無かったのだ。
のちに秀吉は生まれ故郷の尾張に帰って信長の草履取りになった。
そこから足軽になり、このときに寧々と結婚した。
が、ここでちょっと「?」が残る。
一番苦しい時期に一緒にいた五さと結婚しなかったのは何故だ?
もともと尾張に帰った時点では少なくとも「天下人」のての字も考えていなかったはずだ。だったら、五さと一緒になったって良かったはずだ。
秀吉は寧々と結婚したが、五さとの関係がそこで終わったわけでは無い。
五さは寧々の付き人になったのだ。
このことについて、秀吉がどんな気持ちだったのかはわからない。
この五さという女性に誰も目を向けないのでそんな研究をする人もいない。
だからこの項も想像の部分が多くなるが、五さでは無くて寧々をカミサンに選んだのにはいろいろな事情・理由が重なったのかなとも思う。
秀吉は信長に仕えて間もなく浅野長政と意気投合し、義兄弟の契りを交わした。そして、秀吉は長政の義姉・寧々を嫁にもらった。
おそらく、寧々も秀吉を嫌ってはいなかったのだろう。そこに五さは気付いて自ら身を引いた。
が、五さは寧々の付き人になっている。
赤塚不二夫さんの前妻と後妻が仲良しだったという話を聴いたことがある。
それに当てはめれば五さが前妻、寧々が後妻ということになる。
時には夫を良く支え、時には人前で大喧嘩。
秀吉・寧々夫婦はこんな感じでおしどり夫婦だった。
おしどりでいられる知恵を寧々に付けたが五さなのかなとも思う。
大坂城を築城しほぼ天下人が見えて来た頃、五さは病に倒れた。秀吉は五さに宛てて
「流浪の頃に親切に面倒を見てくれたこと、オレは今でも忘れちゃいないよ。今度病気になったと聴いて、オレはとても心配してるんだ」
と手紙をしたためた。
これは秀吉の長所だ。
「受けた恩を忘れない」という気持ちを持ち続ける優しい男だったのだ。