【2008年5月28日】
今日は前田利長では無くて、本多政重のことを書く。
本多政重は本多正信の次男で、家を継ぐ立場では無いので倉橋家に養子に出され、初め倉橋長五郎と名乗った。
長五郎は秀忠将軍の乳母の子である岡部荘八ともめ事になり、荘八を斬殺した。これで長五郎は徳川家にいられなくなり、徳川家を逐電して大谷吉継に仕えた。
が、吉継は真面目過ぎて長五郎とは性格が合わず、宇喜多秀家に仕えることになった。
長五郎は秀家とはウマが合ったらしく、重用した。
長五郎は秀家から正木左兵衛という名前を与えられ、関ヶ原では宇喜多軍の一隊を任された。
関ヶ原で西軍が破れると、左兵衛は近江国堅田というところに逃げた。
のち、福島正則が左兵衛を召し抱えた。
心情的に豊臣贔屓だった正則は、西軍に付いて戦った左兵衛を浪人にしておけなかった。
左兵衛は正則の豊臣思いの気持ちに打たれたが、何分、正則は酒癖がヒドく、「こんな酒癖の悪いオヤジには、ついていけない」と広島を抜け出し、加賀に行った。
加賀は前田利長の国で、利長も正則同様豊臣贔屓だったので左兵衛に3万石を与えて召し抱えたが、「こんな真面目な人には、ついていけない」とこれまた加賀を抜け出して米沢の上杉景勝に仕えた。
ここで左兵衛は直江兼継に認められて、兼継の娘・おまつの婿養子となり、名前を直江勝吉と改めた。よくまあ名前が変わる男だ。が、おまつは早くに病死してしまう。
勝吉の武将としての才能を気に入っていた兼継は、自分の姪・おとらを改めて勝吉の嫁とした。
が、今度は勝吉はおとらとの婚姻は受け入れたが、直江家の養子になることは拒み、名前を
本多政重
と改めた。
ここでようやく本多政重という名前が表舞台に出る。
政重は直江家の養子になる意思が無い以上、米沢にいることは良いことではないと思い、おとらを連れて米沢を後にした。
政重は「おとら、おまえオヤジどのの元に戻らなくていいのか?」とおとらに聴くと、おとらは「そのオヤジどのの兜の前立ては『愛』の文字ですよ」と、くすっと笑った。
ラブラブの二人は江戸に向かった。
政重の父・正信に会うためだ。
江戸に行った政重夫婦は正信に頭を下げて徳川家に再仕官を願い出た。
正信は、
「おまえ、加賀に行け」
と政重に言った。
加賀は政重がおとらと結婚する前にいた土地だ。
藩主は、前田利長のままである。
「加賀に行って、前田のことをあれこれ報告しろ」と正信は言っているのだ。
「よしわかった」
政重はおとらを連れて加賀に行った。
「また来てくれて嬉しく思う。前田家のためによろしく頼む」
と快く前田家への再仕官を認めた。
もちろん、誰の眼から見ても政重は徳川家のスパイなのだが、利長は他の家臣と分け隔て無く扱った。
「気持ち(誠意)は伝わる」
利長は死ぬまでこの気持ちで政重と接した。
諸大名のもとを転々とし、気持ちが荒みきっていた政重。
父・正信から「加賀に行け」と言われたときも「ヘラヘラ笑って前田家を引っ掻き回してやりゃあいいんだろう?」程度にしか思っていなかった政重。
が、利長は政重も他の家臣同様だいじにした。
「気持ちは伝わる」
その通りになり、政重は徐々に前田家をだいじに思うようになった。
父・正信には知られても困らない程度の情報を流し、前田家にとっての重要機密は流さなかった。
高岡城が築城されたのは、ちょうどこの頃だ。
幕府は前田家に対しても手を変え品を変え取り潰しの罠を仕掛けた。
その都度、政重が撃退した。
利長の気持ちはしっかり伝わったのだ。
利長の気持ちの決定打は、政重に5万石を与えたことだ。
5万石。
大名の家臣が5万石。
これには政重も驚いた。
徳川家の譜代の連中の平均の石高がこのくらい。それと同じだけのものを利長は用意したのだ。
もう、政重に迷いは無かった。
大坂の陣の直前、利長が病没し利常が跡を継ぐと、幕府は前田家取り潰しの工作を激しくした。
その都度、政重はそれを撃退した。
「自分をだいじにしてくれた人を悲しませてはならない」
政重は父・正信譲りの頭脳をフル稼働させて前田家を守った。
「変わったわね、あなた」
おとらはくすっと笑って政重をからかった。
家光将軍の代になって、政重に「20万石与えるから幕府に帰って来い」と手紙が届いた。
横山長知が「安房守どのは江戸に戻られるのか?」と軽蔑の眼差しで聴くと、政重は「見損なうなよ」と手紙を火鉢にくべた。