【2008年4月18日】
「太く短く生きる」
それが幸せなことかどうかは、本人にしかわからない。
「正直」と「身勝手」は紙一重。
大須賀高胤という若者がいた。
1,000石の旗本の家の次男坊だ。
旗本の家の次男坊なんて、露骨に「穀潰し」とかって言われながら生きてかなきゃなんない。
運良くどこかの家に養子に行ければめっけモン。
そうでなけりゃ「穀潰しの厄介者」としての人生を送らなきゃならない。
旗本の部屋住みに不良者が多いのには、こんな事情がある。
高胤も何事も無ければそんな人生で終わっていた。
そんな高胤に最初の転機が訪れる。
兄・榊原勝久が病死したのだ。
それまで「お気楽部屋住みライフ」を満喫していた高胤は兄の跡を嗣いで1,000石の旗本となった。
名字も大須賀から榊原に戻し、
榊原勝岑
と名乗った。
旗本になった勝岑は部屋住み時代に比べて自由になるカネが増えた。
『オンナ好き』
32歳で死ぬまで治らなかったこの病気(?)はこのへんから悪化し始める。
兄の跡を嗣いでしばらくすると、2度目の転機が訪れる。
本家・播磨姫路藩主の榊原政祐が世継ぎを残さずに死んだのだ。
1,000石とはいえ分家は分家。
本家に跡取りが無ければ分家の者が跡を継ぐ。
とうとう「厄介者の大須賀高胤」は播磨姫路15万石藩主
榊原政岑
として大名デビューしたのだ。
「大名デビューしたら、ここに行かなきゃ!」
政岑は吉原の三浦屋に通うようになった。
また、この頃から贅沢をするようにもなった。
この頃、将軍は吉宗将軍で幕府は享保の改革を進めていた。
「吉原通いに露骨な贅沢とは。榊原は尾張同様、この吉宗の改革に反対なのだな」
吉宗将軍は徳川宗春同様、政岑にも目を付けた。
そんなことお構い無しで政岑は吉原通いと贅沢を続ける。
高尾という「お気に入り」が三浦屋にいた。
政岑はこの「お気に入り」を1,800両(9,000万円)で身請けした。
花魁を身請け。
吉宗将軍はついにキレた。
吉宗将軍は主席老中・松平乗邑に「榊原を取り潰せ」と命じたが、乗邑は「『榊原家は謀反のことが無い限りは取り潰さない』と台徳院様(秀忠将軍)がお墨付きを与えています」と取り潰しを思いとどまらせた。
榊原家は姫路から高田にトバされた。
政岑は罪人扱いで高田に護送され、2年後に死んだ。
太く短い人生だった。