【2008年11月14日☆】
関宿城祭りは関宿城を背に野田市民が大名行列に扮して歩いたり、火縄銃の発射実演等をする。
下総関宿藩主・久世重之は家宣将軍の頃若年寄となり、寺社奉行を経て老中職(国務大臣)に就いた。
重之はちょっと面白い人生を辿る。
関宿藩主になって4年で備中庭瀬→丹波亀山→三河吉田と転封を繰り返してから関宿に帰って来た。
転封を繰り返した理由は、よくわからない。
庭瀬転封から22年目に重之は関宿藩主に返り咲いた。以後、関宿藩主は明治まで久世家が務める。
重之が若年寄だった正徳元年、朝鮮通信使が家宣将軍の就任祝賀のため来日した。
重之は国書任命式典に出席している。
朝鮮通信使は帰国前、重之の屋敷に挨拶に立ち寄っている。興味深い話だ。
そして吉宗将軍の代になった享保4年、今度は老中職として国書任命式典に出席した。
このとき、朝鮮国礼曹(外務省)から書契が重之に贈られている。
「朝鮮國禮曹参判・金演奉書、日本國執政源公閣下…」
の書き出しで始まる書状で、次のような内容のことが書かれていた。
「朝鮮国王は日本国大君(吉宗将軍)がその職務を嗣がれたことを祝賀して使節を送ったが、その目的は旧好を続け、ますます誠信を篤くして隣国として睦(よしみ)を通じたい。ついては永く新政を補弼されよ」
書契というのは儀礼文書のようなもので、将軍に対して国書を贈るように、老中職の人たちにも書契が送られた。
これはどの将軍のときも同じだ。
そして通信使たちは、帰国前にまたしても重之の屋敷に挨拶に立ち寄っている。
もしかしたら、重之は「朝鮮通」だったのかな?とも思う。
政治家・久世重之は新井白石の数少ない理解者の一人で、白石が正徳金銀を改鋳したとき、その指導者となった。
のち、吉宗将軍が八代将軍に就任すると、首席老中・土屋政直以下5人の老中職に職務に関する質問をした。
重之が番方(軍事担当)だと知った吉宗将軍は「江戸城の櫓の数を知っているか?」と質問した。
重之はギョッとして「存じ奉らず」と正直に答えてしまった。
続いて吉宗将軍が「城中の弓槍鉄砲の数は?」と質問するとまたしても答えられず、消え入るような声で「存じ奉らず」と言った。
吉宗将軍はこれをもって重之に対し罰を与えたり罷免したりはしなかったが、遠まわしに「大和守、オレは白石とは違うぞ」とクギを刺したのだ。
重之の額と背中は汗でびっしょりだった。