【2008年11月12日】
小倉藩主・小笠原忠固。
彼は「権力病患者」だった。
「溜間詰めになりたい」といつも考えていた。
溜間(たまりのま)というのは江戸城の部屋の名前の一つで、大名はその家格によって詰める部屋が決まっていた。
たとえば、
御三家・御三卿は「大廊下上之間」
国持大名と足利家は「大広間」
といった具合に決まっていて、「溜間」というのは基本的には会津・高松・彦根の3藩の詰める部屋だった。
「基本的には」というのはだいたいの場合、この3藩以外の藩主も溜間詰めになることが多かったからだ。
で、この「溜間」。
何が魅力かと言うと、それはただ一点
「幕政(国政)に口をはさめる」
ということだ。
諸大名は幕政に口をはさめないのが江戸幕府のシステムだった。
忠固は溜間詰めになることで幕政に関与したかったのだ。
小笠原家は代々「帝鑑間」詰めだった。
小笠原忠固は朝鮮通信使接待役を無事務めると
「オレはあれだけの仕事をやったんだ。それなりの地位を与えられてもいいだろう」
と言い出した。
そして、溜間詰めになるための猟官運動を家老・小笠原出雲に命じた。
この猟官運動で小倉藩の金庫のカネはあっと言う間に消えていき、ついには藩士の給料カットが始まった。
この有り様に小倉城下では
亀殿が
小石川から
はい上がり
あんじ顔して
おたまりはない
と狂歌が落書された。
忠固は幼名を亀千代といい、播磨安志藩1万石の小笠原家から同姓養子で小倉に来た。
安志藩の江戸屋敷は小石川にあった。
1万石の極小藩から豊前小倉15万石へ養子に来た忠固はヘンな夢を持ってしまった。
給料カットにあった藩士たちは上原与一という儒学者を中心にして反対運動を繰り広げ、ついに小笠原出雲の腹心を殺害して筑前国黒崎に退去した。その数、360人あまり。
黒崎に退去した連中を「黒組」、小倉城の忠固支持派を「白(城)組」と呼び、とうとう『白黒騒動』と呼ばれる御家騒動になってしまった。
騒動は幕府に知れるところとなり、忠固は90日間の謹慎処分となりこれで忠固の溜間詰めの夢は潰えた。
「黒組」の連中は小倉に帰国して一旦は藩の実権を握ったが、すぐに「白組」に実権を奪い返された。
「黒組」の中心人物だった上原与一は逮捕されて火炙りの刑に処せられた。
『白黒騒動』なんてネーミングをした当時の人のユーモアに脱帽。