もずの独り言・はてな版ごった煮

半蔵&もず、ごった煮の独り言です。

佐賀城

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【2009年6月23日】

佐賀藩は長崎の深堀に6,000石の領地を持っていた。領主は深堀鍋島家で、佐賀藩重役の家柄だ。

この深堀で「長崎喧嘩騒動」と呼ばれる事件が発生した。

元禄13年12月19日の昼頃のことだった。

長崎・本博多町(いまの万才町)の大音寺坂という場所で深堀領の藩士・深堀三右衛門が突いていた杖で泥を跳ね上げてしまい、誤って長崎町人・惣内に泥をひっかけてしまった。三右衛門は70歳の高齢で、普段から杖を突いて歩いていた。

三右衛門はきちんと詫びたのだが、根に持った惣内は仲間10人あまりを連れてその日の夕方に三右衛門の屋敷に乱入し、あろうことか高齢の三右衛門と息子・嘉右衛門に殴る蹴るの暴行を加えたうえ大小を奪って逃走した。

惣内は町人だが惣内は長崎の筆頭町年寄・高木彦右衛門の用人だった。このへんが長崎という土地の特殊性で、町人が武士よりも肩で風切ることもあった。

しかし、三右衛門は町人では無い。武士階級の人間だ。大小を奪われたままというわけにはいかない。

12月20日未明、三右衛門は同じく深堀領藩士・志波原武右衛門や息子・嘉右衛門ら10人で高木屋敷に討ち入りした。武右衛門は60歳、元気のいい高齢者コンビは高木屋敷の彦右衛門以下9人を殺害、惣内の首を挙げて見事本懐を成し遂げた。

彦右衛門が三右衛門暴行事件にどこまで関与していたかはわからないが、惣内が筆頭町年寄の用人という「虎の威を借る狐」だったために起きた事件であることは否めず、三右衛門たちが彦右衛門を「大将首」とみなしたとしてもそれは仕方ない。

三右衛門は高木屋敷で切腹した。これは「仇討ち」であることを示すためだ。志波原武右衛門は高木屋敷から引き上げる途中、大橋(いまのくろがね橋)で切腹した。

討ち入りを知った佐賀藩長崎奉行に事の次第を通報、長崎奉行は討ち入りの関係者全員の身柄を拘束し幕府に裁断を仰いだ。

このとき綱吉将軍-柳沢吉保ラインの下した判決は

喧嘩両成敗

だった。

まず、三右衛門と一緒に高木屋敷に討ち入った8人が切腹に処せられた。17歳の嘉右衛門も切腹した。

次に三右衛門に少し遅れて高木屋敷に討ち入った9人に五島列島島流しの処分が下った。彼らは三右衛門が高齢だったことから助太刀に行ったのだ。この9人に関しては綱吉将軍の死後、全員赦免された。

高木家側の処分は、彦右衛門の息子・彦八郎が長崎追放のうえ江戸・京坂居住禁止処分となり、彦八郎は肥前大村で死んだ。

また、討ち入りの原因となった三右衛門暴行事件の共犯者8人は斬首となった。

年が明けて3月、浅野内匠頭吉良上野介に斬りつけたとき、綱吉-吉保ラインは浅野だけを罰している。長崎喧嘩騒動では喧嘩両成敗の判決を下したのに、だ。

綱吉将軍の浅野に対する処分の不自然さはこういうところからも見ることが出来る。