【2009年4月15日】
佐竹右京大夫義明。
出羽久保田(秋田)20万石の7代目藩主だ。
本題に入る前に、久保田藩内の人間関係について、少し触れておく。
佐竹宗家の血筋は4代目の義格のときに絶えた。
そのあと、佐竹家の有力分家である壱岐守家(岩崎藩主)と式部少輔家が交互に藩主を出した。
交互に藩主を出すようになるまでに佐竹家は真っ二つに分裂し、佐竹家全体に感情のしこりが残った。
そのしこりを悪化させたのが6代藩主・義真の急死だった。義真はまだ22歳だった。そのため毒殺を疑う声が根強かった。
義真は式部少輔家から藩主になったが、義真には子供がいなかったため式部少輔家は絶えてしまった。
相続については壱岐守家一本になったが、式部少輔家及びその党派の人間には当然しこりが残る。残るというよりもそれまでのしこりが悪化したと言っていい。
それは壱岐守家及びその党派も同じことで、毒殺説がいつまでたっても残っているためそれまでのしこりが悪化した。
今回書く「佐竹銀札騒動」は藩全体がそんな人間関係になってしまっているところに起こった騒動だと見て欲しい。
久保田藩は、今度は「改革派」と「保守派」に分かれて対立する。
久保田藩はもともと立藩の際、
石高不明
という状態から始まった。
秋田の山奥の地域なんて、誰も検地なんかしちゃいないのだ。
水戸から久保田にトバされた佐竹義宣は入封すると真っ先に領内を検地した。
205,800石。
これが検地結果だった。
このあと、佐竹家では新田開発を進め実高45万石まで収入が増えた。
鉱物も木材もいずれは枯渇する。
久保田藩の財政は義明の代にはどうにもならないくらい悪化していた。
久保田藩の「改革派」と呼ばれる人たちが思いついたのが
銀札の発行
だった。
銀札というのは銀と交換出来る紙幣のことで、藩札だ。
藩札というのはその藩の中だけで通用する紙幣で、当然外に持っていったらただの紙切れだ。
そしてこの銀札が銀と兌換されない場合、やっぱりただの紙切れになる。
久保田藩内には銀札を推進する「改革派」と銀札に反対する「保守派」がいた。
「保守派」の人たちは「もし、兌換出来ない事態になったら」を思って銀札に反対した。
「保守派」の不安は現実となった。
「改革派」が銀札を乱発したために領内で「本当に兌換されるのか?」と不安が広まり銀札は信用を失った。久保田藩の経済が混乱し始めたのだ。
そこに奥羽大飢饉が追い討ちをかける。
領内で餓死者を出さないために久保田藩は藩庫の銀をコメの買い付けのために使い果たしてしまった。
もう、藩庫に銀は残っていない。兌換不可能になってしまったのだ。
久保田は北前船の拠点。商人が多く出入りする。商人は銀札を兌換するよう藩に求める。が、兌換出来ない。
「久保田藩が銀札を兌換しない」
と幕府に訴え出た。
これで久保田藩はごまかしながら藩が破綻するまで銀札を発行し続けるか、正直に制度の破綻を幕府に届け出るか二者択一を迫られた。
この問題が発生したとき、藩主・義明は江戸詰めで詳しい事情を知らない。
が、銀札発行の許可は義明が出さなければ実行されない。義明は銀札についての最高責任者だった。
「交互相続」のこととは別に、「改革派」は義明を7代藩主に支持した。だから銀札にもGOサインを出した。
これは「保守派」から見ればまた新しいしこりだった。
久保田藩は義格死去以降、藩全体のしこりを年々悪化させていったのだ。
義明が久保田に帰国すると、まず「保守派」を全員謹慎処分にした。
これは義明が「あくまで藩主の私が正しい」と言いたいための処分だった。
ところがこの処分からわずか2週間あまりで「保守派」は全員謹慎を解かれ、反対に「改革派」10人あまりが斬首・切腹・改易・追放等の厳罰に処されたのだ。
2週間あまりの間に「保守派」たちは義明に「銀札発行は間違いでした」と認めざるを得なくなるような圧力をかけたのだ。
これで銀札は廃止となったが、久保田藩を大混乱に陥れたけじめはどこかでつけなければならない。「保守派」はそう思った。
この処分劇の翌年、義明は急死した。
死因はいちいち書かない。