もずの独り言・はてな版ごった煮

半蔵&もず、ごった煮の独り言です。

名古屋城

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【2010年8月27日】

尾張藩主・徳川茂徳生麦事件の賠償交渉を命ぜられたのは文久3年3月のことだった。

江戸城でイギリスからの抗議文に眼を通した茂徳は

「これはいかん、戦争になる」

と早とちりし、市ヶ谷の尾張藩邸の人間に

「明日の朝、全員名古屋へ帰国せよ。家財道具は荷物になるだけだから、道具屋に売り払ってしまえ」

と命じた。このため、四ッ谷近辺の道具屋は大混乱になり、また四ッ谷・市ヶ谷の住民まで

「イギリスと戦争だ」

と思い込んでしまった。

騒動は一時的だったが、茂徳のおっちょこちょいぶりがわかる。

もっとも、こんなおっちょこちょいに賠償交渉をやらせる幕府もまたおっちょこちょいなのだが。

生麦事件文久2年8月21日午後3時頃に発生した。

武蔵国生麦村。

現在は神奈川県横浜市鶴見区生麦と呼ばれ、のんびりした住宅地である。

ここで、イギリス人男性1人が斬殺され、別のイギリス人男性2人が重傷を負い、また別のイギリス人女性1人が軽傷を負った。

事件が発生した8月21日はイギリスでは日曜日にあたり、被害者の男女4人はピクニックのつもりで生麦村で乗馬を楽しんでいた。

そこに、薩摩藩主の叔父・島津久光の行列が通りかかった。

藩主の叔父とはいえ藩の行列である。大名行列が通る際は「下馬してひれ伏す」のがルールだ。

ところがこの4人は日本のルールに疎かった。「下馬してひれ伏す」どころか薩摩藩の行列に突進してしまったのだ。

薩摩藩ではこの4人を「無礼討ち」の対象とした。

「ちぇすと!」

薩摩藩士はイギリス人に寄ってたかって斬りかかった。殺害された1人は傷から内臓がはみ出すくらいの深手だった。

当然、イギリス側から抗議が来た。

徳川茂徳は「イギリスと戦争しても勝てない」と思い、老中格小笠原長行

「支払え」

と一言だけ言った。

小笠原長行は「この人、正気かね?」と思った。幕府はすでに朝廷に攘夷実行を約束しているのだ。それなのに、イギリスに賠償金を支払ったら「幕府は舌が二枚あるのか」と言われてしまう。

しかし、小笠原長行は御三家筆頭の茂徳に逆らうわけにもいかず、結局イギリスに11万ポンド(44万メキシコドル)を支払った。

この賠償金支払いで攘夷派の怒りを買った小笠原長行老中格を罷免、徳川茂徳も隠居に追い込まれた。