【2008年11月18日】
旧赤穂藩士47人(通称・赤穂浪士)が吉良義央を殺害し幕府大目付に出頭したあと、四つの大名家に身柄を預けられた。
熊本藩細川家、松山藩久松松平家、岡崎藩水野家、長府藩毛利家の四家で、このうち、細川家では
原 惣右衛門
間瀬久太夫
小野寺十内
間 喜兵衛
礒貝十郎左衛門
冨森助右衛門
の17人を預かった。
熊本藩主・細川綱利は17人をだいじな客人として扱い、衣類を新調したり、食事はもちろんのこと酒の用意までした。
これは17人が切腹するまで続いた。
この頃江戸でこんな歌が出た。
細川の
水の流れは
清けれど
ただ大海の
沖の濁れる
これは浪人たちの扱いについての歌で、細川家と水野家では浪人たちをだいじに扱ったのに、毛利家と松平家は罪人扱いしたことを歌ったものだ。
「水の」は水野、
「大海」の「海(かい)」は毛利甲斐守の甲斐、
にそれぞれかけたものだ。
この歌を知って松山藩では浪人の扱いを多少改善したらしいが…
綱利は幕府に17人の助命を何度も頼んだ。
幕府の中にも大学頭・林 信篤や老中・土屋政直のような浪人贔屓がいたので、助命も幕府内で検討された。
しかし柳沢吉保-荻生徂徠ラインに押し切られて浪人たちは切腹となった。
助命を頼んでいた熊本藩に幕府から「浪人どもに親類書を提出させろ」と通達が来たときに、綱利は「やはりダメか」と感づいた。
そして、切腹の日が来た。
細川家家臣・堀内伝右衛門は17人から遺言を聴いた。
ひとりひとりの遺言を、丁寧に聴いた。
そして17人の死後、預かった遺言を遺族や関係者等に伝える活動を続けた。
また、今日浪人たちの発言等について様々なことが知られているが、これは伝右衛門が17人の生前に話していたことを記録していたおかげでもある。
介錯に使った刀は安場の家に保存され、安場の子孫の方が今でも所有している。
綱利は17人の切腹会場を「そのままにしておけ」と命じ、掃除をさせなかった。