もずの独り言・はてな版ごった煮

半蔵&もず、ごった煮の独り言です。

鶴ヶ城公園(会津若松城)

f:id:Hanzoandmozu:20191126185113j:plain

【2010年4月12日】

蒲生秀行。

浮き沈みの激しい人生を送った大名である。

父・氏郷の死後、陸奥会津若松92万石を相続した。

が、秀行は92万石と同時に家臣団の権力争いも相続した。

蒲生家の内訌は家光将軍の代に蒲生家が無嗣断絶になるまで続いた。

このへんは、山形の最上家に通じるものがある。最上家もまた、50万石という大封で、万石級の家臣がゴロゴロいたために権力争いが絶えなかった。

蒲生家は92万石である。最上家以上に万石級の家臣がゴロゴロいた。

蒲生氏郷には強力なリーダーシップがあったために内訌は起きなかったが、次の秀行の代になると早速内訌が起きた。

また、秀行は豊臣秀次に近かった。

氏郷が死んだとき、秀吉は「蒲生を取り潰すチャンス」と見た。「秀行は年齢が若く、92万石を治めるのは無理だ」と蒲生家を取り潰そうとしたが、これを秀次が阻止した。

しかし秀次は切腹させられ、蒲生家も家臣団の内訌を理由に会津若松92万石から下野宇都宮12万石に80万石も減らされて移封された。家臣団は大量に整理され、内訌を起こすようなことは無くなった。

しかし、関ヶ原の戦い後、秀行は再び会津藩主に返り咲く。今度は60万石を与えられた。宇都宮12万石から48万石も加増されたのだ。

秀行の妻がいえやっサンの娘・振姫だったことが大きかった。そのために60万石という大封が与えられたが、またしても秀行は家臣団の内訌に頭を悩ませる。

60万石ということで92万石の頃の家臣が戻って来たのだ。

もちろん、12万石のときと同じ人員では不足があるので旧家臣が戻って来ること自体は構わないのだが、何分秀行にはリーダーシップが無いのだ。結局、同じことの繰り返しとなった。

さらに秀行に不幸が襲いかかる。

会津地震だ。

この大地震会津藩領内は大きな被害が出た。

秀行は家督を相続してから家臣団の内訌・大幅減封・会津再入封での家臣団の内訌・会津地震と踏んだり蹴ったりが続いた。

もともと、蒲生秀行は仙台の伊達政宗の抑えとして会津若松に配置された。しかし、このように秀行自身が踏んだり蹴ったりだったため、政宗に対する抑えとして役立ったかどうかは疑問だ。

秀行の死後、跡を継いだ忠郷は早世し、会津若松へは加藤嘉明が42万石で入封した。