もずの独り言・はてな版ごった煮

半蔵&もず、ごった煮の独り言です。

熊本城

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【2008年5月12日】

細川重賢の『宝暦の改革』を支えたのが堀 勝名という男で、用人→大奉行→中老→家老と出世した。

堀 勝名は藩校・時習館を設立した。

再春館は重賢の意向が色濃く反映されたものだったが、時習館は勝名の意向が色濃く反映された。

勝名は教育の重要性を理解していた。

「師は国の大工殿。木造りは人造り、木配りは人配りなり」

この理念のもと、時習館では武士階級の身分以外の者でも入学して学ぶことが出来た。

「木造り」は「気造り」、「木配り」は「気配り」に通じる。

「杉には杉の用があり、桧には桧の用がある」なんて言葉があるが、「師」という先生が一人一人の個性を見て「杉になるか、桧になるか」を見定めて育てるのが「木造り」だ。

だから、「木造りは人造り」なのだ。

「木配りは人配り」とは「適材適所」のことで、「木配り」は「気配り」に通じる。

人を育てて社会に出す。

このことを勝名は家造りに喩えたのだ。

面白いと思った。

「木造りは人造り」、「木配りは人配り」

これは今の時代にも通用する考え方だとオレは思う。

大阪城公園(大坂城)

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【2008年5月13日】

豊臣秀吉がある日、大坂城に有力な大名を集めて

「おまえたちの宝物は、何だ?」

という質問をした。

このとき、上杉家家老・直江兼続

「それがしの宝物は兜の前立て(飾り)でございまする」

と答えている。

兼続の兜の前立ては『愛』の文字だった。

「愛がすべてさ!」

兼続は秀吉に向かってヌケヌケと言い放ったのだ。

「おまえ、言うねぇ~」と秀吉は笑った。

これに対して秀吉の顔からみるみる笑みを失わせる答えをしたのが徳川家康だ。

家康は

「私の宝物は家臣たちです」

と、静かに、穏やかに、それでいて迫力のある声音で答えた。

秀吉は「イヤなこと言うなあ、こいつ」と思った。

百姓あがりの秀吉には家康のように譜代の家臣というのがいない。

これが長久手の戦いで明暗を分けたことを秀吉は忘れちゃいなかった。

だからこそ、余計にイヤな気分になったのだ。

家康は武田信玄を手本とした。

最大の強敵である信玄を手本とした家康は

♪人は城

 人は石垣

 人は濠

 情は味方

 仇は敵♪

と「武田節」の考え方まで取り入れた。

その団結力こそが、長久手の戦いの勝利から関ヶ原大坂の陣への流れを作った。

秀吉には、そんな家臣はいなかった。

福島正則は桶屋のセガレだし、小早川秀秋は女性の着替えを覗き見するおバカ青年だった。

秀吉に対して「宝物」と言い切るだけの良質な家臣がたくさんいた家康。

それに対して秀吉の家臣には「?」マークが付く家臣が多くいた。

いつの時代でも、「人が宝」なんだよ。

「人材は人財」

現代の経営者がそういう考え方になれれば、日雇い派遣の問題も解決すると思うんだけどな。

鶴ヶ城公園(会津若松城)

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【2008年5月15日】

大坂の陣の論功行賞で加藤嘉明会津42万石を与えられた。

これには、親友である藤堂高虎の推挙があったとも言われる。

ある日、嘉明と高虎が雑談をしているうちに、

「良い家臣とは、どんな家臣だ?」

という話題になった。

嘉明は、

「骨になっても持ち場を離れない者」

と言った。

責任感のことを言いたいのだろう。

嘉明自身も責任感の強い男だったから、この言葉につながった。

「滅私奉公」が根付くのは嘉明が生きた頃よりももう少しあとの話。

「ジコチューOK」の戦国時代を生き抜いて来た嘉明の口から出た言葉だけに、重みを感じる。

嘉明の加藤家は、嘉明の死後、息子の明成がトンチキ大名だったために取り潰しに遭った。

が、幕府は嘉明の生前の功績に免じ、近江水口2万石を与えた。

40万石も減らされたが、大名として加藤家は残ることが出来た。

彦根城

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【2008年5月28日】

井伊直政に「島津は男の中の男」と言わせたのが烏頭坂の戦いだ。

関ヶ原の戦い小早川秀秋の裏切りと吉川広家に対する調略が功を奏し、東軍が勝利した。

いきさつからやむを得ず西軍に加担した島津義弘

敵陣突破

という突拍子も無い手段に出た。

僅か1,000人で数万の東軍の陣を突破しようというのだ。

島津軍にとっては絶望と背中合わせの撤退戦だった。

数が圧倒的に違うので、場合によっては全員討ち死にの可能性さえあった。

島津軍は最初から目標を

義弘の無事帰国

の一点に置いた。

壮絶な撤退戦になった。

殿軍(しんがり)を引き受けたのが義弘の甥の豊久だった。

99%戦死するであろう撤退戦。

島津家には、こんなときのために代々受け継がれた戦法があった。

捨て肝

と呼ばれるもので、「すてかまり」と読む。

これはもう本隊に合流することは考えず、殿軍はその場でみんな死んで敵を食い止めるものだ。

もう本隊には戻らないんだから、あとはひたすら敵を斬って斬って斬りまくれーッと追撃軍に向かって反転攻撃をするのみだ。

島津軍と追撃を命ぜられた井伊直政軍は烏頭坂という場所で戦闘になった。

島津豊久以下殿軍はすでに本隊合流を捨てているので、激しく井伊軍に襲いかかった。

「どっちが追撃してるんだ?」ってくらいの激戦になった。

中には「我こそが惟新義弘!討ち取って手柄にいたせ!!」と叫びながら井伊軍に突入する者もあった。

とにかく、文字では表現しきれないくらいの激戦になった。

何だかちょっと、湊川の戦いを思い出した。

島津豊久は戦死、井伊直政も脚に銃弾を受けて重傷を負った。

義弘は無事薩摩に帰国したものの、生存者は90人ちょっと。

損耗率90%以上。

いかに壮絶な戦闘だったかがわかる。

関ヶ原の戦後処理について徳川家康

「毛利は吉川広家に免じて、上杉は直江兼続に免じて取り潰しは許してやるが、島津は取り潰す」

と決めていた。

が、ここに直政が待ったをかけた。

「殿、島津は男の中の男!取り潰しは御容赦の程を」

と強く家康に迫った。

いのちを賭けて戦った相手のことだからこそ、直政は庇った。

一種のスポーツマンシップだ。

直政のおかげで、島津家は取り潰しを免れた。

井伊直政彦根藩の初代藩主だ。

高岡古城公園(高岡城)

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【2008年5月28日】

越中国高岡城前田利長が築城したが、すぐ廃城になった。

今日は前田利長では無くて、本多政重のことを書く。

本多政重は本多正信の次男で、家を継ぐ立場では無いので倉橋家に養子に出され、初め倉橋長五郎と名乗った。

長五郎は秀忠将軍の乳母の子である岡部荘八ともめ事になり、荘八を斬殺した。これで長五郎は徳川家にいられなくなり、徳川家を逐電して大谷吉継に仕えた。

が、吉継は真面目過ぎて長五郎とは性格が合わず、宇喜多秀家に仕えることになった。

長五郎は秀家とはウマが合ったらしく、重用した。

長五郎は秀家から正木左兵衛という名前を与えられ、関ヶ原では宇喜多軍の一隊を任された。

関ヶ原で西軍が破れると、左兵衛は近江国堅田というところに逃げた。

堅田に逃げた左兵衛は本多正信の次男ということで黙認された。

のち、福島正則が左兵衛を召し抱えた。

心情的に豊臣贔屓だった正則は、西軍に付いて戦った左兵衛を浪人にしておけなかった。

左兵衛は正則の豊臣思いの気持ちに打たれたが、何分、正則は酒癖がヒドく、「こんな酒癖の悪いオヤジには、ついていけない」と広島を抜け出し、加賀に行った。

加賀は前田利長の国で、利長も正則同様豊臣贔屓だったので左兵衛に3万石を与えて召し抱えたが、「こんな真面目な人には、ついていけない」とこれまた加賀を抜け出して米沢の上杉景勝に仕えた。

ここで左兵衛は直江兼継に認められて、兼継の娘・おまつの婿養子となり、名前を直江勝吉と改めた。よくまあ名前が変わる男だ。が、おまつは早くに病死してしまう。

勝吉の武将としての才能を気に入っていた兼継は、自分の姪・おとらを改めて勝吉の嫁とした。

が、今度は勝吉はおとらとの婚姻は受け入れたが、直江家の養子になることは拒み、名前を

本多政重

と改めた。

ここでようやく本多政重という名前が表舞台に出る。

政重は直江家の養子になる意思が無い以上、米沢にいることは良いことではないと思い、おとらを連れて米沢を後にした。

政重は「おとら、おまえオヤジどのの元に戻らなくていいのか?」とおとらに聴くと、おとらは「そのオヤジどのの兜の前立ては『愛』の文字ですよ」と、くすっと笑った。

ラブラブの二人は江戸に向かった。

政重の父・正信に会うためだ。

江戸に行った政重夫婦は正信に頭を下げて徳川家に再仕官を願い出た。

正信は、

「おまえ、加賀に行け」

と政重に言った。

加賀は政重がおとらと結婚する前にいた土地だ。

藩主は、前田利長のままである。

「加賀に行って、前田のことをあれこれ報告しろ」と正信は言っているのだ。

「よしわかった」

政重はおとらを連れて加賀に行った。

前田利長は政重を覚えていて、本多正信の紹介状に眼を通すと、

「また来てくれて嬉しく思う。前田家のためによろしく頼む」

と快く前田家への再仕官を認めた。

もちろん、誰の眼から見ても政重は徳川家のスパイなのだが、利長は他の家臣と分け隔て無く扱った。

「気持ち(誠意)は伝わる」

利長は死ぬまでこの気持ちで政重と接した。

諸大名のもとを転々とし、気持ちが荒みきっていた政重。

父・正信から「加賀に行け」と言われたときも「ヘラヘラ笑って前田家を引っ掻き回してやりゃあいいんだろう?」程度にしか思っていなかった政重。

が、利長は政重も他の家臣同様だいじにした。

「気持ちは伝わる」

その通りになり、政重は徐々に前田家をだいじに思うようになった。

父・正信には知られても困らない程度の情報を流し、前田家にとっての重要機密は流さなかった。

高岡城が築城されたのは、ちょうどこの頃だ。

幕府は前田家に対しても手を変え品を変え取り潰しの罠を仕掛けた。

その都度、政重が撃退した。

利長の気持ちはしっかり伝わったのだ。

利長の気持ちの決定打は、政重に5万石を与えたことだ。

5万石。

大名の家臣が5万石。

これには政重も驚いた。

徳川家の譜代の連中の平均の石高がこのくらい。それと同じだけのものを利長は用意したのだ。

もう、政重に迷いは無かった。

大坂の陣の直前、利長が病没し利常が跡を継ぐと、幕府は前田家取り潰しの工作を激しくした。

その都度、政重はそれを撃退した。

「自分をだいじにしてくれた人を悲しませてはならない」

政重は父・正信譲りの頭脳をフル稼働させて前田家を守った。

「変わったわね、あなた」

おとらはくすっと笑って政重をからかった。

家光将軍の代になって、政重に「20万石与えるから幕府に帰って来い」と手紙が届いた。

横山長知が「安房守どのは江戸に戻られるのか?」と軽蔑の眼差しで聴くと、政重は「見損なうなよ」と手紙を火鉢にくべた。

鶴山公園(津山城)

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【2008年5月30日】

鶴山と書いて「かくさん」と読む。

津山城のことだ。

江戸時代の津山藩は前半は森家、後半は松平家が支配した。

森家は美作一国18万石を、松平家美作国の内10万石を与えられた。

森家の四代目藩主・長成のときの将軍が綱吉将軍だった。

『犬公方』という言葉を聴いたことがある人がいるかも知れないが、これは綱吉将軍が度を越した愛犬家で「犬キチガイ」だったのでこう呼ばれた。

この「犬キチガイ」の将軍様が長成に

「江戸の中野村(現在の東京都中野区)に犬屋敷を建てるので、そちに普請(工事の総監督)を命ずる」

と言った。

長成は

「こいつ絶対アタマおかしいよ」

と思ったが、それを口に出してしまうと「城地没収・即日切腹」にされてしまうので「ありがたきしあわせ。森家末代までの名誉でございまする」などと心にも無い言葉を口にした。

長成が命ぜられた中野村の犬屋敷は面積約40万?、この中に犬小屋289棟、それに付属する餌会所・釜屋・搗屋・番所等が164棟が建設された。

津山藩が使った費用は33,570石(約16億円)。

津山藩は費用捻出のために全藩士の給料カット等の無理を重ねた。

この工事の最中から長成は精神を害し、工事が終わって間もなく体調を崩してそのまま死んだ。

長成には子供が無かったので、長成の叔父で家老の関 衆利(せきあつとし)を末期養子にすることとし、幕府もこれを許可した。

衆利は犬屋敷建設の現場責任者を務めていた。

衆利は末期養子に決まった段階で既に長成同様精神を害していた。

衆利は参勤交代で津山から江戸へ向かう道中、伊勢国桑名(現在の三重県桑名市)でついに発狂乱心してしまった。

「狂状持ちは改易」これは幕府のルールだった。桑名藩から「森 衆利が発狂乱心」という通報を受けた幕府は津山藩をお取り潰しにした。

が、森家は大御所家康・秀忠将軍の二代に功績のあった家なので、改めて播磨国赤穂(現在の兵庫県赤穂市)に2万石を与えて存続させた。

衆利は発狂乱心したまま8年後に死んだ。

犬屋敷普請でいったい何があったのか?

かさむ費用が津山藩全体を圧迫し、藩の運営に苦しんだ挙げ句に長成・衆利両人の精神を害してしまったのかも知れない。

小田原城

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【2008年5月30日】

北条氏康が関東の覇者になる上で扇谷(おうぎがやつ)・山内(やまのうち)両上杉家を倒すことは避けて通れない道だった。

北条家と扇谷・山内両上杉家の戦いは長年に渡り一進一退を繰り返していた。

「私の代で決着をつけたい」

そう強く願っていた氏康は小田原城の松原神社に上杉家討滅祈願のお詣りをした。

お詣りしてからしばらくして、小田原の浜辺に1匹の大きな亀が打ち上げられているのを発見された。

とても大きな亀で、大の大人が8人がかりで浜辺から救い出し松原神社の側の池に放った。

この亀の話を聴いた氏康は、

「大きな亀が陸にあがるのは、それは願い叶うという吉兆だ。私もその亀に会いに行く」

と、氏康は亀の放たれた池に出向いた。

亀は気持ち良さそうに池の中を泳ぎ回っていた。

これを見た氏康は家臣に「この亀と同じ大きさの鏡を買って来い」と命じた。

家臣が鏡を買って来ると氏康は

「皆の者よく見ておけ。これからこの亀を通じて天におわす軍神に上杉討滅の祈願をするぞ」

と言い、用意した鏡を亀の甲羅に括り付けた。

そして池の周りで酒宴を張った。

「亀と鏡の組み合わせは『亀鏡(きけい)』と言って縁起が良い」と氏康は上機嫌でガブガブ飲んだ。

氏康も家臣たちも♪飲んで飲んで飲みまくれーっ♪とガブガブ飲んで、酒宴が終わると氏康は家臣たちに命じて亀を小田原の海に返した。

が、亀はその後も小田原の海上をプカプカ浮いていた。

「亀が見守ってくれているうちに」

氏康は「河越の夜戦」と呼ばれる合戦で両上杉家を撃破した。

「これもあの亀のおかげだ」氏康は戦勝の酒宴の席で上機嫌だった。

家臣たちも「あの日の松原神社の池の側での酒宴のときと同じくらい、今日の酒はウマい」と戦勝を喜んだ。

浦島太郎の竜宮城は幻影だったが、北条氏康の戦勝は幻影では無く現実だ。

亀は昔っから縁起モノなのだ。

大阪城公園(大坂城)

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【2008年6月2日】

秀吉が少年の頃、養父のいじめに耐えかねて家を飛び出し流浪したことはよく知られる。

このとき、実は秀吉は一人で流浪したわけでは無かった。

五さという女性が秀吉の面倒を見ていた。

この五さが秀吉とどのくらいの仲だったのか、それはわからない。

ただ、面倒を見続ける中で、ひょっとしたら肉体関係があったのかも知れない。

秀吉の流浪は我々が思うような孤独な流浪では無かったのだ。

のちに秀吉は生まれ故郷の尾張に帰って信長の草履取りになった。

そこから足軽になり、このときに寧々と結婚した。

が、ここでちょっと「?」が残る。

一番苦しい時期に一緒にいた五さと結婚しなかったのは何故だ?

もともと尾張に帰った時点では少なくとも「天下人」のての字も考えていなかったはずだ。だったら、五さと一緒になったって良かったはずだ。

秀吉は寧々と結婚したが、五さとの関係がそこで終わったわけでは無い。

五さは寧々の付き人になったのだ。

このことについて、秀吉がどんな気持ちだったのかはわからない。

この五さという女性に誰も目を向けないのでそんな研究をする人もいない。

だからこの項も想像の部分が多くなるが、五さでは無くて寧々をカミサンに選んだのにはいろいろな事情・理由が重なったのかなとも思う。

秀吉は信長に仕えて間もなく浅野長政と意気投合し、義兄弟の契りを交わした。そして、秀吉は長政の義姉・寧々を嫁にもらった。

おそらく、寧々も秀吉を嫌ってはいなかったのだろう。そこに五さは気付いて自ら身を引いた。

が、五さは寧々の付き人になっている。

赤塚不二夫さんの前妻と後妻が仲良しだったという話を聴いたことがある。

それに当てはめれば五さが前妻、寧々が後妻ということになる。

時には夫を良く支え、時には人前で大喧嘩。

秀吉・寧々夫婦はこんな感じでおしどり夫婦だった。

おしどりでいられる知恵を寧々に付けたが五さなのかなとも思う。

大坂城を築城しほぼ天下人が見えて来た頃、五さは病に倒れた。秀吉は五さに宛てて

「流浪の頃に親切に面倒を見てくれたこと、オレは今でも忘れちゃいないよ。今度病気になったと聴いて、オレはとても心配してるんだ」

と手紙をしたためた。

これは秀吉の長所だ。

「受けた恩を忘れない」という気持ちを持ち続ける優しい男だったのだ。

菖蒲城址(菖蒲城)

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【2008年6月20日】

康正2年、古河公方足利成氏がこの城を築いた。

城の竣工が5月5日だったことから菖蒲城と名付けられた。

古河公方というのは、下総国古河(いまの茨城県古河市)に政庁を構えていたのでこう呼ばれる。

もとは相模国鎌倉に政庁を構えていたので鎌倉公方と呼ばれていたが、成氏は享徳の乱で鎌倉にいられなくなったので古河に移った。

菖蒲城は古河への防衛線として築かれた。

天正18年、徳川家康の関東御討ち入りにともない廃城となり、菖蒲城址には内藤正成が5,700石を与えられて幕末まで続いた。

内藤正成は弓の名手として知られ、三河国一向一揆高天神城攻め・三方ヶ原の戦い等で活躍した。

松本城

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【2008年6月23日】

信濃国(現在の長野県)にはたくさんの藩があった。

松本藩もその内の1つで、小学生の頃、遠足で松本城を見た記憶がある。

水野忠直が藩主だった頃に「貞享騒動」という百姓一揆が発生した。

原因は藩財政の窮乏から松本藩がそれまで1俵=2斗5升だった年貢を1俵=3斗5升に引き上げることにしたためだ。

「3斗5升では、オラたちは死んでしまうだ」

松本藩の百姓一万人は松本城の城下に押しかけて1俵=2斗5升に戻すように訴えた。

この1俵=2斗5升というのは、近隣の高島藩や高遠藩の税率とも同じだ。

松本藩の思惑は「1俵=3斗」だった。

なので、松本藩国家老は百姓たちに

「3斗5升というのは納手代が独断でやったことで、これはけしからんことだから納手代は更迭する。これからは1俵=3斗とする」

と約束した。

納手代というのは年貢の徴収職員のことで、藩のヤクニンだ。

2斗5升がベストの回答なのだが、百姓たちもこの案をのんだ。

ただ、百姓たちも馬鹿では無いので、今回国家老が約束したことを文書にするように求め、これを証文にして城下に高札を立てさせた。

が、この高札が立った翌日、藩は一揆の首謀者・加助たちを捕らえた。

加助たちを捕らえたあと、藩は百姓たちに圧力をかけて「1俵=3斗にして下さい」と一筆書かせた。

一筆書かせることで「これは百姓の側からの要求で3斗にしたもので、2斗5升に戻す必要は無い」という体裁を作ったのだ。

加助たち17人は松本城の東北の方角にある勢高刑場で磔刑に処せられた。

加助は磔柱から城に向かって

「年貢は2斗5升、2斗5升だそォ~」

と叫んで絶命した。

この叫び声で松本城天守閣が傾いたといわれる。

本当かどうかはオレにはわからないが、明治時代に撮影された松本城は少し傾いている。

昭和25年、松本市は城山の一角に丸ノ内中学校を建設した。

建設工事の最中、敷地内から人骨がゴロゴロ出て来た。

この骨が加助たちの遺骨だろうといわれている。