【2009年10月13日】
慶長17年、大御所家康は朝廷に対して
「孫娘の和子(まさこ)を、入内させてくれんかのう」
とに要求した。
要求というより圧力である。
幕府は朝廷と公家の生活費を握っていた。だから「イヤだ」とは言えないのだ。
朝廷はしぶしぶ和子入内を認めた。
大御所家康死後の元和6年6月18日、徳川和子の一行はきらびやかな行列を作り二条城を出発した。
和子が入内するまでに破談の危機があった。
元和元年の大御所家康の薨去である。
「大御所どのが死んじゃったんだから、この話はヤメヤメ」
そんな雰囲気が朝廷側にはあった。後水尾天皇もそんな気持ちで、四辻与津子と関係を持つようになった。
後水尾天皇は歴代天皇の中では後醍醐天皇に引けを取らない性豪(絶倫)だった。たくさんの女性と関係を持ち、たくさんの子供をもうけた。
大御所家康は生前、秀忠将軍に「和子入内は必ず実現させるように」と言い残している。秀忠将軍はこの言葉を忠実に実行しようとした。
後水尾天皇と四辻与津子の関係が発覚したのは元和4年のことだった。
秀忠将軍は激怒した。
「オレの娘が入内する前に他のオンナと関係を持ち、女子までもうけるとは何事だ!」
元和5年、秀忠将軍は与津子と娘・梅宮母娘を朝廷から追放した。「ウチの娘の入内の件、お忘れではあるまいな」秀忠将軍は朝廷と後水尾天皇に圧力をかけたのだ。
この件に限らず、幕府の対朝廷政策は家綱将軍の代までは「圧力一辺倒」だった。そのため、後光明天皇が崩御された際は「幕府が毒飼いしたのだ」と噂が流れたくらいだ。
目に見えるところ、見えないところ。
様々な圧力を朝廷に加え、和子は禁裏入内というハレの日を二条城で迎えた。
和子は入内後、元和9年に興子内親王を生んだ。
その3年後の寛永3年、後水尾天皇は二条城に行幸して大御所秀忠・家光将軍と面会している。
「行幸」なのか「呼びつけられた」のか?おそらく関東では「行幸していただいた」と見て、京都では「呼びつけられた」と見たのであろう。
後水尾天皇は興子内親王(明正女帝)に譲位すると、伸び伸びと(?)いろんな女性と関係を持った。霊元天皇が生まれたのは後水尾上皇がかなり高齢になったあとだ。
ずっと後の時代、昭和天皇が御宝算85を超えたとき、
「後水尾天皇の時代の85歳と今の85歳は違う。後水尾天皇のほうが立派だ」
と話している。
「おまえなんか、お江しかオンナを知らんのだろう」