2019-11-01から1ヶ月間の記事一覧
【2012年12月20日】 「下に命令するところを、自ら先に立って行うことを善しとす。身をもって教えれば、口でとやかく言うよりも下はよく従うものだ」 肥前唐津藩主・寺沢広高は上に立つ者の心構えについて、こう言った。 寺沢広高は豊臣政権時からの…
【2012年12月27日】 井伊玄蕃頭直富。 彦根藩主・井伊直幸の嗣子で、家を継ぐ前に死んでしまった。 父・直幸は次席老中・田沼意次に請われて大老職に就任したため国許のことは直富に任されていた。 田沼は人間の「妬み、やっかみ」をよく知っていた…
寝る前に書くことにタイトルなんか付けない。今日の大河ドラマ『秀吉』「こう言いたいのであろう。家康が得た5,000名の信玄の家臣は、強さにおいて海内一の軍勢にて今、家康と争うたところで勝ち目は無い」(羽柴秀吉/竹中直人)織田家が本能寺の変の…
【2012年12月27日☆】 寛永10年12月6日。 上野高崎城下の屋敷で一人の青年が頸部から大量の血を流して発見された。 発見者は日頃からこの青年の身の回りの世話をしている高崎藩主・安藤家の女性で、この女性からの通報を受けた高崎藩主・安藤重…
【2011年1月5日】 慶長19年。 例のあの「方広寺鐘銘事件」で徳川家は豊臣家に対して圧力を強めた。 方広寺鐘銘事件とは、何のことは無い鐘の銘にいえやっサンがいちゃもん付けた一件で、無理やり「事件」に仕立て上げたものだ。 方広寺の鐘の銘には …
【2011年1月11日】 江戸期の小倉藩藩祖は小笠原忠真である。 忠真入封後、小倉は維新まで小笠原家が転封無しで支配し続けた。 小笠原忠真は小笠原秀政の次男として生まれた。 この小笠原秀政はいえやっサンの影武者として名前が挙がることがある。 大…
【2011年1月18日】 元禄14年11月6日。 この日、大坂・曽根崎新地で若い男女の心中遺体が発見された。 男のほうは元播磨赤穂藩士・橋本平左衛門。 女のほうは曽根崎新地の茶屋・淡路屋の遊女・はつ。 橋本平左衛門は大石内蔵助による仇討ちのメン…
【2011年1月19日】 大久保忠朝。 肥前唐津8万3千石の藩主である。 大久保家は忠隣の代に相模小田原6万5千石を与えられ、一時は本多正信・正純父子と権勢を争った。 しかし、本多父子との権力闘争に敗れて改易された。このとき、孫で武蔵騎西2万…
【2011年1月20日】 森 光照。 津山新田藩主・森 長俊の4男である。 津山新田藩というヘンテコな藩名は、この藩が領地を分けずに作られた分家であることを意味する。 津山新田藩は本藩の美作津山藩から1万5千石を与えられて立藩した。 しかし、これ…
【2011年1月21日】 「ならばそのとき、おまえの左の手は何をしていた!」 関ヶ原の戦いのあと、黒田長政は吉川広家調略の功績により筑前一国57万3千石を与えられた。豊前中津12万石から一躍45万石も加増されたのだ。 いえやっサンは筑前一国の…
【2011年2月3日】 寛文5年7月29日、金沢藩主・前田綱紀のもとに一人の元大名がお預けになった。 一柳直興。 伊予西条2万5千石の外様小大名だった男だ。 この小大名が何をしでかしたのか? お取り潰しの直接の理由は参勤交代での江戸への遅参だが…
【2011年2月10日】 津軽順承。 陸奥弘前10万石の藩主である。 元の名を松平新之助という。 父親は三河吉田藩主・松平信明。松平定信のあとを受けて首席老中となって寛政の改革を継続した「寛政の三遺臣」の一人である。 新之助は信明の三男として生…
【2011年2月24日】 慶安4年4月20日、家光将軍薨去。 慶安4年7月18日、三河刈谷藩主・松平定政、発狂乱心により所領収公。 慶安4年7月26日、軍学者・由比正雪、駿府で自害。 4月20日の家光将軍薨去のあと、実際に幕政(国政)の中心に…
【2011年2月24日】 内藤弌信。 江戸時代中期に大坂城代を務めた譜代大名だ。 駿河田中(いまの静岡県藤枝市)5万石の藩主で、内藤家は譜代大名の中でも名家であった。 この弌信は、享保3年8月2日罷免された。 しかし、罷免されたことについて『徳…
【2011年2月24日】 吉田蔵沢。 竹墨画家として有名だが、本業は松山藩の代官だった。 42歳で代官になった。 それまでは無役である。 蔵沢は一度、猟官活動に失敗している。 藩主・松平定喬に対して強引な自薦活動を行い、ついには定喬に呆れられて …
【2011年2月25日】 池田新太郎光政。 岡山藩池田家の初代である。 通常、大名は家督を相続すると何らかの官名を与えられるもので、光政の父・利隆は池田武蔵守利隆だった。 光政も武蔵守を希望したのだが、酒井忠勝が 「あいにくと武蔵守は空きがござ…
【2011年2月25日】 肥後熊本藩主・細川忠利と父・忠興。 この親子は「文通」で意思の疎通を図った。 忠興が忠利へ宛てた手紙は百通を超える。この百通を超える手紙一つ一つに、忠利は全て返事を書いた。 忠興は父親として忠利に対して二つの不安を抱…
【2011年3月1日】 「この簒奪者め!生首にして松江に連れ帰ってやるわ!」 京都に潜伏中だった堀尾掃部(18歳)は松江藩の追手に発見され、斬殺された。掃部の首は松江に送られたあと葬られた。 出雲松江藩堀尾家では藩祖・吉晴の嫡男である忠氏が蝮…
【2011年3月8日】 文化4年、ロシアの外交官・レザノフが通商を拒まれたことの報復として部下のフヴォストフに命じて樺太と択捉島を攻撃させた。 通商を拒んだ老中職・土井利厚は当時、 「ロシアが蝦夷地を攻撃して来れば、これを返り討ちにして日本武…
【2011年4月15日】 「10万石与えるから幕府に帰って来い」 その手紙には、こう書かれていた。 本多安房守政重。 いえやっサンの謀臣・本多正信の次男である。 政重は藤堂高虎を通じて前田家に召し抱えられた。藤堂高虎を通じてなのだが、当然高虎は…
【2011年4月15日】 堀田正盛。 春日局(お福)の遠戚にあたるこの男は、春日局の遠戚という、ただそれだけで老中職に就任し信濃松本10万石を与えられた。 成り上がりそのものである。 幕府内の春日局の権勢は強大なもので、春日局は自らの死後も一…
【2011年4月20日】 天和元年。 肥前唐津藩主・松平乗久のもとに家門大名(親藩)である陸奥白河藩主・松平忠弘が訪れた。 松平忠弘は乗久に 「無理を承知で頼む。そなたの長男・乗守どのを我が娘・福姫の婿養子として欲しい。この通りじゃ」 と頭を下…
【2011年4月21日】 家継将軍、容態重篤。 紀州藩主・徳川吉宗のもとにこの知らせが届くと、吉宗は深夜、ある人物と密会した。 相手は首席老中・土屋政直。綱吉・家宣・家継の三代にわたって老中職を務める重鎮だ。 「紀州様、我等の願いは側用人制度…
【2011年4月22日】 「越後高田藩主・松平越後守光長、家中不統一により所領収公。身柄を伊予松山藩にお預けとする」 天和元年6月22日、越後高田藩松平家の御家騒動の裁判に綱吉将軍が直々に判決を言い渡した。 6年前、藩主の後継者問題に端を発し…
寝る前に書くことにタイトルなんか付けない。今日の大河ドラマ『北条時宗』「我等の周りは右も左も前も後ろも怨みと謀だらけにござる。信じる心失のうたら、怨みにのみ込まれまする」(北条時宗/和泉元彌)兄・時輔の六波羅行きを前に時宗が「信じる心」を…
【2011年4月22日】 弘化2年10月3日。 讃岐丸亀藩主・京極高朗に一人の役人の身柄お預けが言い渡された。 その役人とは、元江戸南町奉行・鳥居甲斐守忠耀。世間一般に鳥居耀蔵と呼ばれる者である。 鳥居耀蔵は岡山まで陸路を行き、そこから船で丸…
【2011年4月28日】 「前将軍徳川慶喜、備前岡山藩にお預けとする」 西郷吉之助は最初、徳川家に対する処分に慶喜の岡山藩お預けを入れていた。 これは、慶喜自身と幕臣に対して屈辱を加え、怒った幕臣連中と江戸を主戦場にして戦い、徳川幕府をきれい…
【2011年5月6日】 元和8年7月3日。 加賀金沢藩主・前田利常の正室で秀忠将軍の次女である子々姫が病没した。 子々姫病没。 江戸でこの知らせを受けた土井利勝は 「好機到来!」 と早速金沢に使者を差し向けた。 使者が前田家に手渡した手紙には 「…
【2011年5月12日】 「サルッ!オレの命令に従えないのか!!」 「いい加減にしろよオッサン!そんなんじゃ北陸斬り取るのに一万年かかるわっ!!」 羽柴藤吉郎は信長の命令で柴田勝家の下で北陸攻めに従軍していたが、もともと仲の悪かった二人、喧嘩…
【2011年5月12日】 西山公園。 ここには鯖江城が築城されるはずだった。 鯖江藩主は間部家である。 家宣将軍の薨去後、「甲府グループ」は権力を守り抜くために天皇家の力を利用しようとした。 理由は、家継将軍がまだ幼児だったからである。 「甲府…